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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.3] ■■■
[3] 卑弥呼遣使

  景初二年六月[238年]
  倭女王["卑弥呼"]
  遣大夫"難升米"等詣郡[帯方郡]
  求詣天子朝獻[魏]
  送詣京都[洛陽]

238年は、公式には帯方郡とその北の楽浪郡は"遼東の公孫氏"の国"燕"が治めていることになっている。このことは、"燕"滅亡前年にもかかわらず、魏は、すでに帯方郡に史を赴任させていたことになる。この地域支配をえらく急いでいたのである。
そんな事情から、倭は魏にえらく厚遇された。招聘といっても力まかせではなく、事実上の招待だった可能性が高い。黄海沿岸から朝鮮半島、さらには日本列島にまで支配権が及んでいることを急いで示す必要があったからである。

時代的にも結節点だったと言えそう。

「古事記」には、東征以前に奈良盆地に大勢力が存在したことを示唆する話は無いが、そこには先行渡来者がいた。従って、橿原に宮を造った時点で、すでに、様々な地域との交流があったと見てよいだろう。そこに乗り込んで政権を樹立した訳だ。
しかし、考古学的には大陸文化が渡来して、早くに一大文化圏が出来上がったのは、明らかに九州地区北部で奈良盆地ではない。
ところが、その地は廃れてしまい、奈良盆地のヤマト勢力が圧倒的存在感を示すようになる。まるで、敗者と勝者の如くに、その差は絶大。「古事記」を見てもそのような覇権争いがあったとはとうてい思えないのに。
遺跡の状況から、弥生期には環濠集落や高地の山城擬き集落が生まれており、戦乱が発生したと推定される。だが、注意して眺めれば、その規模たるや小競り合い防御レベルで、城壁といった本格的な戦争に備えるようなものには程遠い。それを考えると、両地域での戦争にまで進んだとはおよそ考えにくい。それに、玄界灘を差配していた宗像勢力に対しては尊崇の念が示されている訳で対決していたとは考えにくい。

「古事記」が、極めてインターナショナルな視点で編纂がなされていると感じる由縁がここにある。
238年を切欠として、奈良盆地が倭国の都として、東アジア全域で認められたことを、知っていたからこその、九州無視の姿勢と言わざるを得ないからだ。

「古事記」は一見国内主義的な書に映るが、それは、実は、公的国史の「日本書紀」の方。官僚の知恵を絞って、中華帝国の史書と齟齬なきように編年体でまとめるプロジェクトとして進めている以上、政権運営のご都合主義的な記述にならざるを得ない。
一方、「古事記」は確固とした歴史観に基づいた叙事詩であるから、そのような気遣いは無用。大陸からの影響とは書かないだけで、その結果についてしっかりと記載しているのである。
つまり、大陸における政治状況の大変動に合わせて、国内がどう変わったのかが描かれているということ。
つまり、九州勢力は一切無視してかまわぬとはっきりと書いたのである。

どうしてそうなったかは自明。
九州勢力が羽振りのよかったのは朝鮮半島に進出した中華帝国の漢に全面的に依拠できた時代。
なかでも奴国は金印を漢の天子から下賜され、そのお墨付きのお蔭で、連合王国の頂点に立つことができたのである。しかし、支配者として君臨していた訳ではなく、交易整理の役割に近かったと見てよかろう。倭国はフラグメント化していたからだ。
  舊百餘國漢時有朝見者

それが、卑弥呼の時代になると、100から30へと集約されていった訳である。

中華帝国の没落で大激動の時代に突入し、その波に翻弄された結果だろう。
漢は黄巾(太平道)の乱[184年]で力を急速に失っていき220年には滅亡。遼東の支配者は公孫氏に。漢から独立し燕として、東北はツングース系の高句麗、西北方面では烏丸と鮮卑に対峙しながら、朝鮮半島の事実上の支配者になったと見てよいだろう。最盛期には、黄海対岸の山東半島までを領土に含めたらしいし。

ここらの歴史感覚をつかんでいないと、全体像が見えてこない。概念的には以下のような状況になっていたと思われる。・・・

┼┼烏丸鮮卑┌───┐┌─┐■■■
┼┼┌───┐│┼┼┼││■■■
┼┼┼┼┼││夫餘├┤婁│■■■
┼┼└─┐│└───┘└─┘■■■
┼┼■■└─┐┌─┐┌─┐■■■
┼┼■■┼┼┼││││■■■
┼┼■■└─┐││高││■■■
┼┼■■■■││句││沃│■■■
┼┼■■■■│燕││麗├│沮│■■■
┼┼■■■■└┬┘└─┘└─┘■■■
┼┼■■■■┌┴───┐┌─┐■■■
┼┼■■■■│楽浪郡││■■■
┼┼■■■■└┬───┘│■■■
┼┼■■■■┌┴───┐│■■■
┼┼■■■■│帯方郡├│■■■
┼┼■■■■└───┬┘└─┘■■■
┼┼■■■■┌─┐┌─┐┌─┐■■■
┼┼■■■■│馬││弁││辰│■■■
┼┼■■■■│韓││韓││韓■■■
┼┼■■■■└─┘└─┘└─┘■■■
┼┼■■■■■■■■■■■■■■■■
┼┼←黄海■■■■■■■■■日本海→

漢の配下の筆頭として北九州勢力は繁栄していたのだが、漢の威光が消滅したのだから一大事である。直接に中央と重要な関係がある訳ではないから、3韓同様に朝鮮半島の中華帝国の郡太守の管理下にあった筈なのに、それを失ってしまったのだから。海を隔てていることもあり、倭国代表と認められていたので安寧を貪っていたのがそうはいかなくなったのである。
没落一途の帝国と、そこから独立した新覇権国の勢力争いが朝鮮半島を包んだ訳で、この権力移行の波に乗れるか否かで運命が決まる。北九州勢力はそれに失敗し、奈良盆地勢力は成功したということになろう。
  秦{都:咸陽}[B.C.221〜B.C.207年]
   ↓ 農民反乱
  西漢/前漢{都:長安}[B.C.202〜8年]
   ↓
  新/王莽政権{都:長安}[8〜23年]
   ↓
  東漢/後漢{都:洛陽}[25〜220年]
   ↓ 黄巾(太平道)の乱/[184年]
  三国[220〜280年]
   魏{都:洛陽},蜀{都:成都},呉{都:建業/南京}


奴国は、金印への拘りが問題視され、楽浪郡+帯方郡との交易を取り仕切る役割を失ったのかも。ともあれ、燕が倭の差配者は奈良盆地のヤマト勢力としただけのことだろう。その燕は魏と対抗すべく南方の呉と組んだだろうが、力及ばず。ヤマト勢力は冷徹に推移を眺め、燕から魏へと外交相手をいち早く転換したことになる。
北九州の小国連合が束になろうと、勃興する新中華帝国を目指す"燕"に逆らえる筈もなく、諾々と従うしか手はなかろう。要するに、金印を持つ代表国連合は一瞬にして崩壊し、ヤマト勢力と親交を深めていた伊都国が北部九州の代表となって再編されたのである。当然ながら、各国にはヤマトの官吏が常駐し小国の動きを監視するようになった訳である。
  自女王國以北 特置一大率檢察諸國
  諸國畏憚之
  常治伊都國於國中有如刺史


大陸との交易や文化導入の中心地である北九州の勢力がインターナショナル的姿勢を矜持しているように思ってしまうが、時代の大転換期だったために、真逆に作用したのである。インターナショナル観に疎そうに映る内陸の奈良盆地勢力は、各地の勢力の代表や高級難民を抱え込んでいたので、知恵が働いたということだろう。

・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・
  【遼西〜遼東:「燕」】
古代文化圏あり。B.C.1100頃から土着勢力が支配。
  西周{都:鎬京}
   ↓ 犬戎の侵入
  東周{都:洛陽}前半:春秋時代[B.C.771〜B.C.403年]
   斉,"晋",楚,呉,越,宋,秦
   魯, 衛, 晋,鄭,曹,燕,陳
   ↓
  東周 後半:戦国時代[B.C.403〜B.C.221年]
   秦,"魏,韓,趙",楚,燕,斉
   ↓ 周滅亡[B.C.256年]+韓滅亡[B.C.230年]+…
後漢は、189年、"公孫氏"を遼東太守に任命。
その後「燕」として独立し基盤を固め、朝鮮北部(楽浪郡+帯方郡)を支配化におさめ、黄海対岸の山東半島まで手を伸ばす。半島南の「韓」は属国扱い。東側も同様。

  【朝鮮半島北部】
檀君朝鮮@B.C.2333年
 ↓ (檀君朝鮮滅亡@B.C.1100年)
[殷逃亡勢力<Ψ 周 武王>]箕子朝鮮
 ↓ (箕子朝鮮滅亡@B.C.194年)
[燕遺民+斉遺民勢力進出<Ψ 秦 始皇帝>] 衛氏朝鮮@B.C.221年
 ↓ (衛氏朝鮮滅亡@B.C.108年)
[前漢 武帝侵略]楽浪郡
 ↓→夫餘の流入
 ↓
[後漢領土拡大@204年]帯方郡+[属国]

  【北方ツングース系】
夫餘、婁、高句麗、沃沮、は馬賊的ツングース勢力であり、夫餘がを半島に押し出したと言える。

  【朝鮮半島南部】…細分化小国集団 言語的統一性欠落
山東半島対岸〜多島海の海側は倭人域。馬韓は長江系。後、百濟王国が生まれるが、祖は逃亡したツングース系王子との伝承神話がある。
山東半島から逃亡の"韓"が流入し内陸域へ。
その後、秦の大陸制覇に伴い、亡命勢力流入。
さらに流入が進み雑居状態に。
   ・箕子朝鮮遺民
   ・系難民(扶余, 貊)
   ・日本列島から交易拠点に倭人
辰韓は北方陝西系。後の新羅の発祥元。基本、小中華思想である。ツングース系(高句麗)文化はシャーマニズムを中心として深く浸透してはいるものの系譜的に繋がっていない。

・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・
後漢
黄巾の乱

├魏
┼┼┼┼┼┼┼┼┌東魏⇒北斉┐
┼┼┼┼┼┼┼┼├西魏⇒北周┴──⇒隋⇒唐
┼┼┼┼┼┼┼[北朝]北魏
┼┼┼┼┼┼┼
┼┼┼┼五胡十六国(匈奴 羯 鮮卑 烏丸 丁零 羌 etc.)
├蜀
┼┼┼┼
西晋…短期的統一@280年
┼┼┼┼
└呉
┼┼┼┼┼東晋⇒[南朝]劉宋⇒南斉⇒梁⇒陳↑
・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・
【春秋戦国期】
 《黄河系》
晋/唐{曲沃}
 {邯鄲 太原}
 {安邑}
 {陽 新鄭}
 《黄河支流渭水》
{咸陽}
_{長安}
 《黄河系》
_東周{洛陽}
{陽 新鄭 曲阜}
中山{霊寿}
 《黄河(旧済水)系河口》
{臨
 《山東半島南 膠河系》
__(膠州/青島)…後世
 《山東半島南 膠南》
 瑯…*↓
   ---秦嶺山脈・淮河境界---
 《揚子江系》
{成都}
_{長沙}
{武漢}
_予章{南昌}
{呉都}
 《浙江系》
{会稽}…*
 ;江系》

 《珠江系》
_桂林
_南寧
南越{広東}…*↑
 《海南島》
__
 《紅河系》
越南{交阯}

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