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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.4] ■■■
[4] 黥面文身

  男子無大小皆黥面文身

女王国では皆が顔に入れ墨をしていた上に、身体にも模様を施していたので大陸人はビックリしたようだ。
実際、そうだったかも知れぬが、歓迎の際にはわざわざ黥面文身者だらけのように取り計らった可能性もあろう。
末盧国で、すでに潜水漁法という見慣れない漁撈も目にしていたから、成程感はあった筈。
  好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
わざわざ同じような文章を記載しているところを見ると、この文化にご用心の程ということか。
  今 倭水人 好 沈没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽

もちろん、しっかりと史書にあたって、その理由を述べている。
  夏后"少康"之子 封於會稽 斷髪文身以避蛟龍之害
これ以上の解説文は無いが、越の始祖話だから、それだけで読む人には女王の系譜は越に繋がることがわかる次第。「史記」には、"越王句踐・・・文身斷發"と明確に記載されているのだから。

この場合、注意しておくことがある。
大陸の書物には、倭人の祖は自称"夏"系列の越とか、自称"周"系列の呉という記載がある。しかし、魏志倭人伝のココでは、倭水人が女王国を含んでいるからといって、同一概念とは限らない。
これより古い時代の倭人とは、山東半島対岸の朝鮮半島東南部を中心とした勢力。広義ではおそらく、多島海〜済州島〜対馬/壱岐〜北部九州。奈良盆地を含む日本列島を「倭」とみなしていたとは思えないからだ。
(倭の名称を日本に変更した理由はそこらにもありそう。日本列島居住者は明らかに雑種だから、朝鮮半島の倭人も祖と言えないこともないが、黒潮海人を黄海沿岸由来とは言い難い訳で。)

ともあれ、呉越辺りの海人文化濃厚な国であるゾと決めつけた訳だ。
「史記」B.C.488年には、呉王が、魯王への要求交渉で、我は文身で禮を責むるに足らずと語って取り止めたとの、いかにも孔子勢力が入れ込んだ手の話があるが、要するに、呉越は野蛮とされていたのである。そんな勢力ですゼと一言加えたことになる。
(但し、魏"王"という名称がいみじくもしめすように、北方国王は帝とされなかったようである。南方が大繁栄しており、帝は南方国王と見なされていた可能性が高い。)

日本列島では、黥面や文身型土偶は珍しくないから、入墨風習は古くからあったのは間違いないところ。その点では、呉越との共通海人文化を共有しているのは間違いない。
「古事記」でも、伊須氣余理比賣のもとに、天皇の婚姻申し出を伝えるべく出向いた大久米命の黥利目は驚きを持って受け止められている。それこそ「ナニその模様?鳥の目の真似?」と。
 大久米命以天皇之命詔其伊須氣余理比賣之時
 見其大久米命黥利目
 而 思奇歌曰
  阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米
 (何故黥利目?)
 爾 大久米命答歌曰
  袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米
 故其孃子白之仕奉也


「古事記」の記載はまさに海人の入墨文化一色。
 久米(天皇の親衛隊的存在)…目に裂紋様
 安曇(三柱の綿津見神が祖)…目に枠紋様
 宗像(三女神)…胸に形象(× or レ)

中華帝国では、反儒教的な南方文化は嫌われていたのは間違いない。唐代の書である「酉陽雑俎」では刺青に対して一巻を割いているほど暖かい目で眺めているが、それは一部のインテリにしか通用しない。そんなことは、ヤマト政権は百も承知。
にもかかわらず、力のある南方勢力の血を引くことを示唆する話をして、魏の関心を引きつけ、外交駆け引きで優位に立とうと図ったのだと思う。

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