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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.7] ■■■
[7] 大作冢

  其死 有棺無槨封土 作冢

"冢(=墳)"を作っている点にハイライトを当てた文章に映る。
そう解釈すると、墓構造をよく見ていないとみなすことになる。その見方は間違いではないが、背景を理解しておく必要があろう。

言うまでもないが"冢"とは、土を盛り上げた墳墓を指す。卑彌呼の墳墓が山のように大きいので度肝を抜かれ、まずはソレを記載したのだろう。
  卑彌呼以死
  大作冢
  徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人


直径にして100mをはるかに越すことになる。前方後円墳を示唆する記述はないものの、この規模で他のタイプは考えにくいので、その可能性が高い。

「古事記」では、御陵については必ず場所を示唆する名称を記載しているが、墓の構造については触れておらず「魏志倭人伝」の感覚とは違うことがわかる。このことは、丘のように盛り上がった墳墓構造になるのは倭では当たり前で書く必要も無いということだろう。と言うか、「古事記」の編纂者も「魏志倭人伝」を読んでいるから"有棺無槨"との記載が気になった筈で、だからこそ御陵造成譚の収録を見送ったと考えることもできよう。

要するに、大陸と倭は墓のコンセプトが違うのである。

中華帝国での棺の埋納先とは"地下"宮殿。貴族でない場合でも、ソコは地下室。魂が過ごすというか、異界の生活空間。
埋納封土後、その上に小山を盛ることもあるが、盛り土に特別な意味はない。丘を造成して目立たせる必要を感じることはない。壮大さの訴求は"冢"ではなく、異界での生活用の副葬品だし、必要なら、壮麗な祭祀用の廟を別途建造すればよいからだ。

一方、倭は、死霊は山上に還って祖霊化すると見なしていたようだから、地下墓室は受け入れがたいものがあろう。
従って、倭の"冢"は、地下墓室上の盛り上げ丘ではなく、造成した丘上に平坦地を作り竪穴を掘って、そこに棺を埋めることになる。封土するものの地下埋納感覚ではなく、人口造成の山上に死霊が座すという考え方だろう。

しかし、この違いを見て、倭は独特と考えるべきではない。大陸に於ける個別の山上霊信仰を消し去り、五山に集約してから、天子が代行役となる流れが考えられるからだ。
「山海経」は、津々浦々土着の山信仰ありと伝える書でもあるが、その西山経には"崋山冢也"(注:冢者 神鬼之所居也)とあり、"冢"が山を意味している訳で。

大陸の墓制に照らせば、倭の巨大な"冢"だが、そこには玄室-戸-道が見当たらないから無槨と見なすことになろう。しかし、倭では、棺の設置用の竪穴を造るので、物理的には必ず有槨風になる。ただ、粘土壁や簡素な木枠が多かったと思われるが。(後期になると横穴型玄室構造で正真正銘の有槨型になる。恐らく追葬を行うことになったからだろう。)

古墳期以前の九州北部で広がった甕棺墓や、東日本の列石集団墓は無槨であり、中華帝国の墓制を知って、遅れた文化圏と見なされたくないので、墓を有槨にしたつもりだったが、いかんせんコンセプトが違うので伝わらなかったのである。

それも無理はなかろう。史上初皇帝の秦始皇帝の陵+兵馬俑坑+水銀河の壮大さは筆舌尽くし難しなのだから。
夏の墓制は知られていないようだが、殷/商についてはかなり解っており、階層の差異も明確化されていたようだ。・・・
 亞字形墓/十字方形…4本墓道の巨大槨
            (e.g. 玄室330平米 総面積1800平米)
 中字形墓…2本墓道の2槨1棺
 甲字形墓…1本墓道の2槨1棺
 長方形墓…無墓道の小型1槨1棺

国家形成以前も1槨1棺の井字形墓や字形墓だったらしく、槨なき墓制は唾棄すべき文化とされていた可能性がある。

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