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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.8] ■■■
[8] 會同嗜酒

  其會同坐起父子男女無別 人性嗜酒

生来酒好きの性分と断じている。何度も、しかもとりたてた理由もないのに、酒宴に誘われたに違いなく、そんな風習にえらく驚いたに違いない。
その席には、老若男女が分け隔てなく着いており、皆して賑やかに楽しんでいたからである。漢字には情緒語彙が無いから、擬音を多用しながら直接的に気分を表出し合うコミュニケーションの場に遭遇して相当に戸惑った筈。

魏に於ける酒とは、時代性もあって、もっぱら参謀集団の軍師祭酒。白楽天的な酒の歌とは全く違う。
  「短歌行」其一  曹操孟徳[155-220年]
 對酒當歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多
 慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康・・・

    「説文解字」巾部: 古者杜康初作箕帚、酒。智康、杜康也。
なにせ、社会的には、禁酒法施行なのである。
「魏書」二十七によれば、魏官員の徐景山[171-249年]は禁酒令にもかかわらず、"歡喝酒,竟然私自喝酒,更加喝醉了"の態。曹操 怒れども処刑を免れ、その後出世。

「史記」殷本紀に登場する紂王の「酒池肉林」は有名だし、漢を一時滅ぼした儒教原理主義国家 新[8-23年]の王莽が指摘した「百薬之長」も言葉として知られているから誤解しがちである。食料豊富なら酒造はどうということはないが、戦乱で耕作放棄地だらけになり、大量虐殺も横行したので労働力人口僅少化が一挙に進んでしまったから、穀物を大量消費する行為を止めさせるしかなくなったのである。
もちろんのこと、周にしても基本は禁酒。群れて飲酒すれば死罪。
 誥曰、群飲。汝勿佚、尽執拘以帰于周。
 予其殺
 汝典聴朕。勿弁乃司民湎于酒

   [「尚書/書経」酒誥]

つまり、飲酒とは、権力者が臨席して行う宴会で特別に許される行為。それは、席次と献酒儀礼によるヒエラルキー維持のための手段でもあり、参列の喜びの表現は儒教によって定式化されたものでしかない。
ところが、倭の酒宴には、そのかけらもなかった訳で、さぞかし仰天したに違いない。

「古事記」での、酒の扱いを見ても、確かに鷹揚なところがある。

速須佐之男命が高天原で大嘗祭ありと聞いて糞をちらかしたが、天照大御~は怒らず、"酔って吐きちらした程度"と至って寛容。
 亦 其於聞看大嘗之殿 屎麻理散
 故 雖然爲 天照大御~者登賀米受而
 告 如屎 醉而吐散登許曾
 我那勢之命爲如此

泥酔が大目に見られていたことがわかる。

さらに、速須佐之男命が八俣遠呂智に酒を呑ませて眠らせて退治する話もある。堂々と対峙し成敗するのではなく、まことに姑息な手段だが、酒を出されるとついつい手を出してしまうのは当然という風土を示しているともいえよう。
 告其足名椎手名椎~
 汝等釀八鹽折之酒
 亦作廻垣於其垣 作八門毎門結八佐受岐
 毎其佐受岐 置酒船而
 毎船盛其八鹽折酒而待

八鹽折とは醪を次々と加える重醸を意味するとされている。調べたところでわかりそうにもないので、この説を受け入れるしかない。水無しではアルコール発酵は一向に進まないだろうから、単純な重醸だと糖化だけ進んだ極端な甘酒/味醂が出来上がってしまう。ところが、清酒醸造方法には3段仕込みがあり、水を加えながら酵母の活動を活発させることが可能。職人的技法であるが、古代から酒造には格別な取り組みがなされていたのであろう。

古代の酒造技術はどうなっているのか定かではないが、一般には口噛酒が一番古い形と考えられている。(津々浦々、祭祀のために巫女が酒造を行っていたことを意味する。)東アジアでは南方に伝わる唾液醗酵による糖化製法だ。この場合、生米付着の酵母が糖のアルコール化を果たすことになるから、気温が低い北方では使われることはなかろう。
その辺りは、風土記に記載がある。
  「大隅国風土記」逸文 "醸酒"
 大隅 ノ國ニハ、一家ニ水ト米トヲ設ケテ、村ニ告ゲ囘ラセバ、
 男女一所ニ集マリテ、米ヲ嚼ミテ、酒槽
[ブネ]ニ吐キ入レテ、散リ/\ニ歸リヌ。
 酒ノ香ノ出デクルトキ、又集マリテ、嚼ミテ吐キ入レシ人等、コレヲ飲ム。
 名ヅケテ口嚼ミノ酒ト云フト云々。風土記ニ見エタリ。


一方、大陸北方では、穀類を発芽させて分解酵素の力で糖汁化させ、黴でアルコール化させる方法が基本だったと思われる。しかし、この方法だとビール程度のアルコール濃度がせいぜい。そんなせいもあるのか、発芽糖化法は日本列島では使わていなかったようだ。しかし、黴によるアルコール化技法は存在していたようだ。(酒神信仰集団の杜氏が存在していたことになる。酒神のコンセプトは杜氏により異なるが女神である。・・・乳酸菌を避ける必要上、女性を醸造場から排除。)
  「播磨国風土記」宍禾郡
 庭音村(本の名は庭酒なり。) 大~の御粮[≒飯つ糒]、沾れて[≒黴]生えき。
 即ち、酒を醸さしめて、庭酒に獻りて、宴しき。
 故、庭酒の邑といひき。今の人は庭音の村といふ。

   [出典:「風土記」「日本古典文学大系2」岩波書店1958年]

但し、日本酒的な「段仕込み」技法を曹操が保有していたらしい。
 臣県故令南陽郭芝、有九春酒法・・・ 文選南都賦注引魏武集

大陸ではどうも、個人的に酔うことが豪の者という印象を与えているようだが、倭だと、互いの心を通わせることができるのが飲酒と考えられていたようである。特に、男女関係にはなくてはならないものだったようだ。
嫡后 須勢理毘賣命が嫉妬するので、出雲から倭國へ向かう日子遅神こと大国主命は詫びて詠う。
その呼び掛けに応え、夫婦の契りを確認する固めの杯事が取り行われるのである。・・・。
 爾 其后取大御酒坏 立依指擧
 而 歌曰

  夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 (八千矛の 神の命や 吾が大国主)
  那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流斯麻能 佐岐耶岐加岐微流
   (男に坐せば 打ち見る嶋の 先や来掻き廻る)
  伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與
   (磯の崎落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ)
  賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯
   (女にしあれば 汝招きて 男は為し 汝招きて 妻は為し)
  阿夜加岐能布波 夜賀斯多爾牟斯夫須麻 (綾垣の ふはやが下に 苧衾)
  爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能
   (柔やが下に 栲衾 さやぐ下に 沫雪の)
  和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理
   (若やる胸を 栲綱の 白き腕 素手抱き 手抱きまながり)
  麻多麻傳多麻傳 佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世
   (真玉手玉手 差し枕き 股長に 寝を為寝させ)
  登與美岐 多弖麻都良世 (豊御酒 奉らせ)
 如此歌 即 爲宇伎由比 而 宇那賀氣理弖 至今鎭坐也
 此謂之~語也


現代でも婚姻儀式の要は杯事。
「古事記」にも、そんなシーンがある。
帯中津日子天皇は近淡海國行幸で木幡村にて、麗しき乙女の矢河枝比賣命に出遭い、その家に。大御饗が開催され、大御杯が献じられるのだ。
 故獻大御饗之時 其女矢河枝比賣命 令取大御酒盞而獻
 於是天皇 任令取其大御酒盞而御歌曰・・・


麗しき日向國諸縣君の娘 髮長比賣を召したが、御子の大雀命が賜ることになった際にも豊明宮で姫に大御酒の柏の葉を握らせており、婚姻に当たっての宴会で酒杯を傾ける儀式はこの頃から。
 天皇即以髮長比賣賜于其御子
 所賜状者天皇聞看豐明之日
  於髮長比賣令握大御酒柏 賜其太子
 爾 御歌曰・・・

この場に、吉野の国主(栖)が登場してきて、大雀命が権力を握るかのような意味深な歌を詠む。
 又吉野之國主等 瞻大雀命之所佩御刀歌曰 ・・・
それとどう繋がるのかわからぬが、酒造りの労働歌も。
 於吉野之白檮上 作横臼
 而 於其横臼 釀大御酒 獻其大御酒之時
 撃口鼓爲伎 而 歌曰

  加志能布邇 (檮の上に)
  余久須袁都久理 (横臼を造り)
  余久須邇 (横臼に)
  迦美斯意富美岐 (大御酒醸し)
  宇麻良爾 (美らに)
  岐許志母知袁勢 (聞こし以ち)
  麻呂賀知 (麻呂がち)
大贄の定番歌ということらしい。
 此歌者國主等獻大贄之時時 恒至于今詠之歌者也

時あたかも渡来人ラッシュで、それに連れて様々な物品製造方法が移入されたが、そのなかに酒醸も含まれていたようだ。
百濟國に賢人あらば貢上せよとの命で。
 又秦造之祖 漢直之祖 及 知釀酒人
 名"仁番" 亦名 "須須許理"等 參渡來也
 故 是"須須許理"釀大御酒 以獻
 於是天皇 宇羅宜是所獻之大御酒
 而 御歌曰・・・

  須須許理賀 ("須須許理"が)
  迦美斯美岐邇 (醸みし御酒に)
  和禮惠比邇祁理 (吾酔ひにけり)
  許登那具志 (事無奇酒)
  惠具志爾 (笑奇酒に)
  和禮惠比邇祁理 (吾酔ひにけり)

天皇好みの醸造酒が登場したようだ。その結果、宴会が盛り上がり、渡来人との交際が急速に深まったのであろう。

ただ、御子のために醸した酒についての、息長帶日賣命の歌が示すように、酒は特別扱いされていたようである。
 於是還上坐時
 其御祖 息長帶日賣命 釀待酒 以獻
 爾其御祖御歌曰

  許能美岐波 (この神酒は)
  和賀美岐那良受 (吾が神酒ならず)
  久志能加美 (奇酒の神)
  登許余邇伊麻須 (常世に坐す)
  伊波多多須 (磐たたす)
  須久那美迦微能 (少名御神の)
  加牟菩岐 (神祝き)
  本岐玖琉本斯(祝き狂ほし)
  登余本岐 (豊祝き)
  本岐母登本斯 (祝きもとほし)
  麻都理許斯美岐叙 (奉り来し)
  阿佐受袁勢 (あさずをせ)
  佐佐 (ささ)
建内宿祢命の返歌はこんな調子。
  許能美岐袁 (この神酒を)
  迦美祁牟比登波 (醸みけむ人は)
  曾能都豆美 (その鼓)
  宇須邇多弖弖 (臼に立てて)
  宇多比都都 (歌ひつつ)
  迦美祁禮迦母 (醸みけれかも)
  麻比都都 (舞ひつつ)
  迦美祁禮加母 (醸みけれかも)
  許能美岐能 (この神酒の)
  美岐能 (神酒の)
  阿夜邇宇多陀怒斯 (あやに歌楽し)
  佐佐 (ささ)
酒を楽しむ歌とされている。
 此者酒樂之歌也

會同に関するここらの記述は、箱庭的風土の倭と広大な地の集合体である大陸の違いを端的に表している点にも注意を払う必要があろう。
倭の會同は根底に地縁があり、そこに招待者が混然一体化することで、大きな世界に繋がることになる。中央による統制は、この会合開催で自然に分解されてしまう訳だ。
儒教の宗族信仰とは、死後も「姓」で規定される社会思想。會同とはそのための寄り合い。天子を規定するのも先ずは「姓」で、拝謁とは氏姓の官僚組織内での位置付けを確定させる儀式。以後、日本列島では、統治の仕組みを積極的移入したものの、根本思想は嫌われ定着しなかったようだ。

魏の高級外交官僚は、倭の社会では「姓」の意義がわかっておらず、機能分化が未熟なママと見抜いたのである。

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