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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.9] ■■■
[9] 不知正歳

 魏略曰
  其俗不知 正歳 四節
  但 計春耕秋収 爲年紀


"人性嗜酒"の後、本文ではなく、参考情報として引用文が来る。わざわざ、無関係な情報を注記として挿入。

儒教信仰に染まっている人達は、報告書に目を通して倭とはなんたる風土の国だと、半ば憤慨したに違いない。そう言えば、暦さえ使わない人々だったな、とダメ押ししておきたくなったのだろう。長寿の国として知られていた訳だが、楽し気に皆で酒宴開催と耳にして、侮蔑感が沸々と込み上げてきたのかも。戦争に明け暮れ、日々神経をすり減らして生活する人々からすれば自然な感情。
(言うまでもないが、中華帝国に朝貢を始めるということは、その暦に従うということでもある。)

「古事記」でも、月や星に関する信仰が存在しているようには思えない。潮の満ち引きという点で実用上重要な、月暦にも触れようとしないのだから、中央統制型暦制を嫌う社会だったのかも。暦の標準化など余計なお世話というところか。

そのかわり、春耕秋収で暦にしているとの指摘。要するに、天体歴は嫌われたのだ。狭い地域毎に気候が異なるので、立春-立夏-立秋-立冬を示されたところで農耕上の実用性は皆無だからだろう。思弁的な用語は真っ平御免ということ。欲しいのは、生活に直結する動植物相季節変動の観察に基づく農漁狩猟用の暦。これと繋がらない天体暦に興味が沸く訳がない。

実生活に成果が期待できる、動植物の季節的変化の観察に注力するのが倭の流儀と言えよう。
航海にしても、黒潮遠洋航海は余りに危険であり、もっぱら陸地視認沿岸航海に徹しているなら、いくら簡単にできるといっても、無駄な手数でしかない緯度観測もしないですましたに違いなかろう。それに地形判定は場所同定だけでなく、潮目を見極める航路選択の決め手だし。

一方、大陸で天体暦が重要だったのは、第一義的には儀式日の全土統一的な"正確な"確定だろう。それは軍の作戦活動の質に直結するからだ。戦乱期だと暦は死命を制するものでもあったろう。
(暦の標準化が進んだのは明らかに春秋戦国時代。)
その目から眺めると、倭の体質は超古代そのものであり、信じ難いほど遅れた社会に映ったと思われる。

ところが、叙事詩である「古事記」に干支年に加えて数字日付が書かれている。暦日を記載する必要はないにもかかわらず。但し、すべて崩御日だが。
そうなると、単年度の農事や儀式日の決定用カレンダーではなく、天体運航に無関係な春耕秋収に合わせた独自の暦を持っていた可能性がある。"紀年"記載があったというのだから。

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