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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.12] ■■■
[12] 狗奴國

 其八年(247年 帶方郡)太守"王"到官

 倭女王"卑彌呼" 與 狗奴國男王"卑彌弓呼"素不和


狗奴国(熊襲)は男王であり、その官は地名からくる"狗古智卑狗(菊池彦)"と記載しているから「日の御子」の元祖はこちらであるという自負心がありそう。それがある限り、奈良盆地の信仰と一致させることが難しかったのだろう。そう考えるとヒミコという名称は「姫巫女」から来ていそう。

注意すべきは、ココは倭国の政治状況を記載しているのではなく、東夷領域の平定状況を描いた箇所という点。倭国は地理的に魏の対抗馬の呉に近く、その南にあるのが狗奴國である、と位置を誤認させた理由が見えてくる箇所でもある。
ところが、それが上手く行きすぎ、外交使節は、倭国への直接出兵は地形上どう見ても手に余ると実感してしまったのである。

正始元年(240年)には太守"弓遵"が建中校尉を倭に訪問させた。その後、魏としては、朝鮮半島南部は郡の太守による直轄統治ができるようになったので、その「南」の島嶼域は倭国王に任せたいとの目論見。倭はそれに即時了承となる手の話に映るが、裏事情を考えると同床異夢である。
外交交渉は丁々発止だったと想像される。
 遣倭"載斯烏越"等詣郡
  説相攻撃 状
 遣塞曹掾史"張政"等
 因齎 詔書 黄幢
  拝假"難升米"
  爲檄 告喩之

魏は倭国の援軍要請に応えて、辺境統治専門家を派遣し、倭王の代理人に檄文を渡し、懇切丁寧に喩した訳だが、その説得は簡単ではなかったろう。倭の朝貢目的はここぞの時の大規模援軍なのだから。要するに、魏は、この地域はすべて倭の軍勢に任せるの一言で終わらしたかったのだろう。無い袖は振れぬ訳で。軍旗とそれを守る厳選した精鋭兵士を下賜することで我慢せよと。
それこそ、「三国志演義」的ストーリーなら、下手をすれば、倭国上層部はその回答を聞いて立腹し、即座に魏の辺境での戦術指南役 塞曹掾史など何の役にも立たぬと斬殺する可能性もなきにしもあらず。その覚悟で有能な実務者を派遣したのだろうが。
ともあれ、倭国の方がインテリジェンスレベルが高そう。九州南部は江南の地の呉と繋がってもおかしくないと見ていたからこその援軍要請。そして、魏はその呉の圧力に直面しており、"鬼道"勢力を優遇せざるを得ないこともお見通しだったのだから。
(実際、呉は山東半島南の付け根まで勢力を伸ばした。それは強大な海軍を保有していることを意味している。)

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