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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.15] ■■■
[15] 倭國亂

景初二年六月[238年]倭の女王が大夫派遣。ここが年代絶対値のアンカー。最初期前方後円墳 纒向勝山古墳の造成年代は考古学的(木材判定)には210年頃とされ、ほぼ同時代である。

女王 卑弥呼を共立する以前は、男王乱立の大混乱期。大陸の大混乱の影響だろう。中華帝国の中央の権威が喪失したため外交的一本化に意味が薄れるとともに、帝国内核地方で呪術を表に出す農民道教勢力が勃興してきただけでなく反帝統合化が進んだから、その対応姿勢を巡って倭の各国で対応方向がバラけた筈。
 其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂

卑弥呼登場で収まるのだが、共立というのだから、女王が武力で平定したのではなさそう。
想うに、日の巫女に対する尊崇ということで、各地の王がまとまったのだろう。おそらく、乱の始まった頃に日食が発生したことの記憶が鮮明だったせい。それまで太陽信仰でまとまっていた連合王国としては、祭祀者は殺害された筈である。それを切欠として倭国大分裂に至ったのだと思う。ただ、戦乱といっても、本格的内戦が続いた訳ではないだろう。
(倭の古代遺跡にはそれなりの防御用の濠・壁や見張り用建造物跡が認められ、山城的場所の集落跡も多いが、殲滅を狙う軍勢に対抗するレベルにはほど遠い。示威行為的"戦乱"が行われていたと見るべきだろう。
大陸での戦いでの勝利とは、敵対勢力に属す人々の絶滅であり、その一部の奴隷化。支配階層にとっては労働力激減は避けたいところだが、兵役制度上簡単にできるものではない。従って、この時代、漢帝国没落は全域で人口激減をもたらした筈。その結果、漢帝国の主体だった峡西系の人々は、労働力として北方ステップの遊牧系を移入させるしかなくなり、それが裏目に出て、最終的には絶滅させられたと見ることもできる。
日本列島では奴隷的身分は存在するものの、この手の奴隷制度は無かったようだし、対"土蜘蛛"という例外はあるものの、絶滅は避けているように見える。)


この「魏志倭人伝」の倭國亂だが、多少の違いはあるものの、「後漢書」の認識をママ受け継いだだけと見てよかろう。
 桓靈(146-189年) 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
   [「後漢書」卷八十五 東夷列傳第七十五]
「魏志」韓伝では、倭は半島に存在しているようだ。
 韓在帯方之南 東西以海 為限南與倭接
 方可四千里有 三種一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
 桓霊之末韓彊盛 郡縣不能制 民多流入韓國
 建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡
 遣公孫模張敞等 収集遺民興兵伐韓 舊民稍出 是後倭韓遂属帯方


「後漢書」には、それ以前の倭国と漢の関係が記載されている。時代的にはかなり離れている。
 建武中元二年(57年)
 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫
 倭國之極南界也
 光武賜以印綬

 安帝永初元年
(107年)
 倭國王"帥升等"獻生口百六十人 願請見

  (国王に・・・等という記述はありえまい。)

"帥升等"とは「古事記」記載の4代天皇の大倭日子[おほやまとひこ][すきとも]と違うか。(3代師木津日子玉手見命の御子は他に、常根津日子伊呂泥命、師木津日子命)

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