→INDEX ■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.21] ■■■ [21] 呉書の徐福 「魏志倭人伝」とは、中国正史とされる陳寿[n.a.-297年]:「三国志」で、帝紀がある魏書の東夷末節部分を指す。倭は帯方郡経由で差配している地との位置付けになる。 当然ながら、呉書や蜀書に倭は登場してこないが、呉[222-280年]の初代 孫権期に、倭に接触した可能性を示唆する記述があるので取り上げておこう。 所謂、始皇帝時代の徐福の話がなされ、その地理的感覚に基づいて、呉の擁していた強大な海軍が島嶼に渡ったとされる。・・・ (黄龍)二年(230年)春正月,魏作合肥新城。 詔立都講祭酒,以教學諸子。 (孫権)遣將軍衞溫、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。 亶洲在海中, 長老傳言: 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海, 求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。 世相承有數萬家,其上人民。 時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。 所在絶遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還。 [「呉書」二 呉主傳 孫権] 呉から航行した先が"夷洲"と"亶州"だが、後者は在海と書いてあるが、前者は明瞭ではない。陸続きの地に上陸したのかも知れない。 一般にはどちらも島嶼と見なされ、"夷洲"とは臺灣と考える人が少なくないようだ。そんなこともあって、台湾を蓬瀛と呼ばせたこともあるようだ。 地図だけ見れば、当然と考えがちだが、台湾海峡横断を試みると、黒潮本流方向に流される可能性が極めて高い。一旦、激流に乗ってしまうと当時の船の力では抜け出せない。幸運にも、日本列島に漂着することもあるが、たいていは太平洋に運ばれて海の藻屑と消える。えらくハイリスクである。 そんなこともあるのか、亶州=瀛州として、長江河口(上海)の沙島である崇明島に付けられることもあるようだが、万人レベルの海軍出兵先になるとは思えないし、斎の伝説に基づく渤海湾から東の外洋島という陸から遠く離れた島とのコンセプトとも異なるし。(清代は福建漳州では、小中華思想的に、台湾名とし、広東が南瀛、日本を東瀛と名付けたようだ。)ともあれ、浙江杭州湾南岸の会稽に渡来することがあるというのだから、沿岸流から見てそこから北方の相当な距離にある大きな島嶼ということになろう。 ともあれ、沿岸流に逆行しつつも、黒潮激流を避けて大型軍船が航行したのだろうから、山東半島近辺から東支那海へと進んだと見れば、到着地は済州島か五島列島。大陸側に流されれば、朝鮮半島端となろう。 それを考えれば、"夷洲"は朝鮮半島辺りで。平原があり、徐福末裔が数万家になったという"亶州"は九州と考えたくなる。 こうした想像は、それ自体たいした意味はないが、俯瞰的に東アジアを眺める姿勢で頭を使えば、全体像が見えてくることになる。 【瀛州/瀛洲】 始皇帝/Qin Shihuangの不老不死薬探索通達は出土木簡から確認されている。 ["Across China: Wooden slips reveal China's first emperor's overt pursuit of immortality" XinhuaNews新華社 2017年12月24日] この命に、渤海湾に注ぐ黄河(斎河)下流デルタ域国家(斎)の不死の仙人が住む神山伝説が引っかかったのだろう。 斉人徐市等上書言。 言海中有三神山,名曰合蓬莱,方丈,瀛洲,僊人居之。 請得齋戒,與童男女求之。於是遣徐市發童男女數千人,入海求僊人。・・・ 今聞韓眾去不報,徐市等費以巨萬計,終不得藥,徒姦利相告日聞。・・・ 還過呉,從江乘渡。并海上,北至瑯邪。 方士徐氏等入海求神薬,数歳不得。 [「史記」秦始皇本紀] 使徐福入海求神異物,還為偽辭曰: 臣見海中大神, 言曰:「汝西皇之使邪?」 臣答曰:「然。」 __:「汝何求?」 __曰:「願請延年益壽藥。」 神曰:「汝秦王之禮薄,得觀而不得取。」 即從臣東南至蓬萊山,見芝成宮闕,有使者銅色而龍形,光上照天。 於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」 海神曰:「以令名男子若振女與百工之事,即得之矣。」 秦皇帝大説,遣振男女三千人,資之五穀種種百工而行。 徐福得平原廣澤,止王不來。 [「史記」巻百十八 淮南衡山列傳] (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |