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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.24] ■■■
[24] 御下賜織物

稲作が行われていた河姆渡@浙江には養蚕を示唆する織具、同じ地域の銭山𣻌からは平絹[@B.C.2750年]が出土している。錦織物にしても、仰韶[@山西 B.C.300年]で使われており、王権周辺の衣服は早くから高度な織物だったと見てよさそうだ。
河姆渡よりはかなり後世になるとはいえ[@B.C.1500年]、上流側の四川域では有名な養蚕王"蚕叢"が君臨していた訳だし。

それを考えると、倭にその手の技術が入ったのは相当な昔である可能性が高い。「古事記」で、大宜都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれると記載されている位なのだから。

 種 禾稻…粟と稲の栽培。
 紵麻…繊維採取用植物。(1種かも知れぬ。)
      苧/カラムシは刺草系
      中央アジア原産の大麻系(麻殻は燃料,実は食用)

 …養蚕。
  緝績…紡織。("於池中柔麻,使可緝績作衣服。"@陳風)
 出
  細紵
…細紵麻糸製の薄布。
  …2本絹糸製緻密な固織布

実際、有田@福岡[B.C.170年]や吉野ケ里@佐賀の出土品から見て、日本列島には早くから絹織物が存在していた訳で、三内丸山@青森[縄文前期 B.C.3500年]からも平織と綾織の布が出土している上に、唐古@奈良や登呂@静岡からも織具が出土しているのだから、養蚕〜織布までの一貫生産が早くから行われていたと見るのが自然だろう。

にもかかわらず、御下賜品は織物製品だから、特製と考えるべきだろう。

 今以
   絳地交龍錦 五匹
…深紅の地色に龍が交叉した模様の刺繍が施された錦(反物)
   絳地 十張…粟粒状の縮皺毛織地氈(獣毛を縮絨したタペストリー)
   絳 五十匹…茜色織物(反物)
   紺青 五十匹…紺色生地(反物)
    荅汝所獻貢直
  :
 又 特賜汝
   紺地句文錦 三匹
…紺地に曲模様を入れた錦(反物)
   細班華 五張…細かな斑模様入りの毛織タペストリー
   白絹 五十匹(反物)

工芸品の粋のような品々だったと見てよさそう。
エジプトのコプト教徒が3世紀頃から始めた工芸の粋とも言われる織物のようなレベルかも。麻・羊毛・絹を使い、染色した上で、綴織にした上で刺繍を施したものだが、絹を輸入して利用しているから、そこで使われている織物技術はシルクロード一帯に広まっていたと考えてよいだろう。

(参考)
高野昌司:「古代の織物技術」繊維工学 51(2) 1998年
藤井守一:「中国の古い絹織物の話(織の美の源流)」繊維製晶消費科学 7(5) 1966年


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