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■■■ 魏志倭人伝の読み方 [2019.1.25] ■■■
[25] 呉越倭

 自古以來其使詣中國皆自大夫

西周〜春秋戦国時代、王権(天子+諸侯)+臣下+被支配者の身分構造が確立していたという。・・・
 天子…直轄+封侯
 諸侯…各国統治者
 卿大夫…臣(“家”主)
  …政権運営閣僚
  大夫…有領地
 …無領地
 庶人…被支配者階層

そこで"大夫"を自称して、天子に御目通りしたがるということは、周時代に臣下の礼をとりおこなった"家"の正統な末裔であると主張している訳だ。
"周"の系譜譚からすると、"古公亶父→王季→文王"という継承を実現するために、泰伯と仲雍が蛮の地へ身を引き、中華帝国外の文化である文身断髪の風俗に合わせて王家を樹立したとされている。
つまり、倭の訪問者はその系譜の臣下と間接的に主張していることになる。(「晋書」、「梁書」では直接的に"自謂太伯之後"と記載している。)
マ、自称話であり、文献的には倭人が暢草を献上して来た頃に近いから当てにならぬゾと考えただろうが、一概に、断定もしかねるので一応記載したのであろう。"亶"という名称が島嶼の地名である可能性もある訳で。(当時の倭人の定義がはっきりしないのでなんとも言い難いところがある。)
   【"周"先公系譜】
┼┼┼棄/后稷
┼┼┼
┼┼┼
┼┼┼=太公
┼┼┼└古公亶父=太王(太公望)
┼┼┼┼├泰伯/太伯…呉建国(嫡子無し)
┼┼┼┼├仲雍/虞仲
┼┼┼┼└季歴=王季
┼┼┼┼┼【西周系譜】
┼┼┼┼┼└昌=文王[B.C.1110-B.C.1061年]
┼┼┼┼┼┼=武王[B.C.1061-B.C.1045年]

魏の外交官の見立ては、文身断髪の風俗の大元を考えると、呉と言うよりは越だろうというもの。直接そのように書いてはいないが。

 夏后少康之子封於會稽

  【夏朝】[B.C.2070-B.C.1600年]
┼┼┼┼<先夏期>
┼┼┼
┼┼┼
┼┼┼┼<"夏后氏"期[B.C.1989-B.C.1916年]>
┼┼┼
┼┼┼
┼┼┼太康
┼┼┼中康
┼┼┼
┼┼┼<無王期>羿
┼┼┼少康[夏6代 B.C.1875-B.C.1855年]@帝丘
┼┼┼├杼[夏7代]@老丘
┼┼┼├曲烈
┼┼┼└無餘…[越侯初代@会稽(浙江 紹興)]
┼┼┼┼└無壬
┼┼┼┼┼└無
┼┼┼┼┼┼└夫譚[B.C.565-B.C.538年]
┼┼┼┼┼┼┼└允常="越王"

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