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2004.11.11
 
 


豊島屋十右衛門…

 蕎麦屋で「せいろ」と簡単なつまみで一杯というのは、江戸情緒も加わり、お洒落な一時だと思う。
 この時、特に銘柄を指定しないと、豊島屋の酒が供されることがある。
 お祝いごとの際にも、豊島屋の「金婚」が贈られることが多い。

 もっとも、蕎麦屋が出す清酒だからといって、大衆酒とも言いがたい。大吟醸ともなると、ホテルオークラ、山里の「今月の銘酒」(2004年11月)で呑めば、1合¥3,150である。(1)
 節目を祝うには最適だと思うが、気楽に飲める値段ではない。

 目立たないが、東京には、江戸時代から続いている、豊島屋ファンがそこここに存在するのである。

 豊島屋とは、もともとは、豊島屋十右衛門が神田鎌倉河岸で興した幕府御用達酒店である。
 現在は、白酒や清酒等を醸造する豊島屋酒造(2)を分離し、神田猿楽町の豊島屋本店(3)が、家督を相続している。

 八代将軍吉宗と南町奉行大岡越前が活躍していた、まさに時代劇の世界の頃、発展した酒屋である。劇にも時々登場するから、架空の話と思う人もいるようだが、現在まで続いている江戸の老舗である。

 御用達とされるから、幕府との繋がりを利用した政商と考えてしまいがちだが、正反対である。
 江戸市民に支えられて大繁盛したのである。

 よく知られるように、吉宗は「享保の改革」の推進者だ。元禄バブルが弾けた後に厳しい緊縮経済政策を採用した将軍である。
 そんな、質素な生活が要求されていた時に、豊島屋は事業を伸ばしたのである。

 酒と肴の飲み屋が、短期間に飛躍したのだ。
 その秘訣は、掛売りお断りの、薄利多売らしい。酒は原価販売とし、酒樽回収で収益を得た、というのだから、今でいえば、画期的なビジネスモデルを考案したと言えそうだ。

 しかも、自家製豆腐による、美味で特別大きな田楽を1本2文で出したことも、人気沸騰の一因だそうである。
 「田楽も鎌倉河岸は地物也」と川柳にも詠われたという。

 現在、そこらじゅうで見かける「居酒屋」のコンセプトの考案者は、豊島屋、と考えてもよいだろう。

 実は、「居酒屋」以上に、繁盛を極めたのが、家族向けの「白酒」販売である。  店の前に医師ととび職を待機させ、殺到する客が怪我をするのに備えたほどの大人気を博したという。
 安藤広重の「絵本江戸土産」にも、初春名物の鎌倉町豊島屋酒店が白酒を商う図として掲載されていることでも、有名なのだという。(4)

 そして、この大活躍は、将軍吉宗の目にもとまることになる。

 おそらく、豊島屋のように、新機軸で事業を発展させる人が、もっともっと欲しい、というのが吉宗の気持ちだったろう。
 豊島屋こそ改革の牽引車だ、と賞賛した訳である。

 21世紀の豊島屋さんも、十右衛門時代のように、飛躍して欲しいものである。

 --- 参照 ---
(1) http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/restaurant/yamazato.html
(2) http://www.toshimayasyuzou.co.jp/tosimayamigihtm.htm
(3) http://www.toshimaya.co.jp/rekishi.html
(4) http://www.norenkai.net/flash/shinise/matsuri/main10.html#


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