↑ トップ頁へ

2006.6.15
 
 


七支刀で考えさせられた…

 大和朝廷の武器倉と言われる石上神社が、七つの剣先がついた刀を収蔵している。残念ながら非公開である。

 錆落としの不手際で、金象嵌の銘文の読み取りは難しいのだそうだが、それでもかなり判読できるらしい。
  [表] 泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬□七支刀□辟百兵宜供供王□□□□作
  [裏] 先世来未有此刀百済□世□奇生聖故為王旨造□□□世

 古代史ファンではないが、たまたま、この刀の複製製作ドキュメンタリー番組(1)を見ていて、色々と気になった。

 よく知られるように、大陸側の書物には、4世紀の日本に関する情報はほとんど登場しない。
 そのなかで、日本書紀に、五十二年(372年)秋、百済の使いが「七枝刀」を献上したとの記載がある。従って、この刀が当時の日本の状況を推測する唯一の手がかりだ。
 皆の関心が集まるの致し方がない。
 ただ、そのために、銘文の読み方は様々で、どれが定説などといえない状況らしい。こまったものである。

 例えば、「374年春に百済の近肖古王は東晋に遣使して“鎮東将軍領楽浪郡太守守百済王”に冊封されたことを契機として、既に泰和4年(369)に東晋で鋳造されていた“百兵をしりぞける”呪力を持つと祈念された七支刀を東晋から下賜されたと推考されるが、高句麗と興亡戦の最中にあった百済王と世子はこの呪刀の七支刀を東晋から下賜された国際関係の意義を倭王とも共有すべく、これをホウ(人偏に方)制し、この経緯を裏面に象嵌した百済製“七支刀”を倭王に贈った」といった見方がある。(2)

 中国の政権からの、権威を示す品、しかも大量生産品ではない貴重な一品ものを、模造するという説だが、そんな例があるのだろうか。
 それに、中国が不思議な形態の七支刀を遣わした根拠がわからない。日本では、草薙剣・八咫鏡・八尺瓊勾玉など「8」だ。一体「7」は何なのか。北斗七星が武器になるとでも言うのだろうか。
 このデザインが中国思想由来なら、その由来を是非教えて欲しいものである。中国で七支刀を祀った話を聞いたことは無いのだが。
 「7」が関係しそうなものといえば、任那での戦い位しか考えられないと思う。

 と言った具合に、素人でも考える位だから、甲論乙駁状態なのだろう。

 そんなことより、一番驚かされたのは、七支刀が鋳造品という点である。

 鋳鉄(炭素量2.1%以上)は脆くて硬いから、刀には向かない。さらに、文字を彫るなど不可能と言ってよい。刀は、普通は鍛造品である。
 ところが、鋳造品なのだから、4世紀に、特殊熱処理による鋳鉄強化技術が完成していたことになる。
 分析測定ができない時代、極めて高度な品質管理技術があったのだ。
 しかも、七支刀の厚さは3ミリで80センチ近い長さがある。形状も複雑だから、鋳造技術もただならぬものである。

 このことは、百済は、鉄製武器製造技術を誇示したかったということではないのか。
 当時の日本は呪術・宗教は青銅器中心で、武器は鉄だった筈だ。但し、倭は刀への信仰心が強い。そこで、技術力の高さが一目でわかる刀を贈ることで、軍事同盟強化を狙った、と思うのだが。しかも、矛を刀と呼びかえてまで、倭人に気をつかったのである。
 これで、同盟強化には成功したが、新羅の高品質武器製造能力を凌駕することはできなかったから、百済は滅亡してしまう。

 もっとも、中国では紀元前に、この程度の技術は実用化していたそうだ。「白」鋳鉄(割れ易く, その断面は白色.)の鋳物を熱処理し、道具を作る大規模工場があったという。
 古代中国の技術の洗練度はただならぬものがある。

 その技術力を象徴するのが、象嵌文字作成である。線幅をコントロールできるし、その線にさらに楔をつけて金線剥がれを防止するなど、脱帽もの。技巧もさることながら、細かな彫刻用具が作れたのだから、紀元前の技術は現代でもあなどれない。
 七支刀の象嵌は、線幅は太くコントロールもできていない上、単純なU字溝。稚拙でとても比較にならない。中国から下賜された刀の模造品と呼べる代物ではない。

 ただ、こうした中国の技術は素晴らしいと言っても、それは工芸の視点での話。戦乱の世なら、現実の戦いでの優位性につながらない技術をいくら磨いたところで、なんの魅力もなかろう。

 日本のその後を見ると、鋳造は仏像や鐘といった宗教系に登用され、鍛造は武器に使われていく。そして、世界に冠たる、切れ味優れた日本刀を生み出す訳である。いかにも、島国らしい武器の展開である。結局のところ、この技術は工芸品製作止まりに終わる。

 一方、跳び抜けた鋳造技術があり、火薬も発明した中国だが、これを使って世界制覇に進むことはなかった。
 火薬の力で覇権を握ったのはイスラム勢力である。騎兵集団は火縄銃の前には太刀打ちできなかったのである。

 技術進化の方向を工芸に振れば、技術大国であっても、世界の技術を学んで覇権国になろうと考える勢力に追い抜かれてしまうということだろう。

 鋳造は安価な大量生産技術でもあるから、その後、中国が大砲生産ビジネスに入ってくるチャンスもあったと思うがそれも逃してしまう。
 鋳造大砲で一世風靡したのはロシアである。毛皮貿易の富を注ぎ込み、ウラルの製鉄業振興をはかり、鋳造技術を磨かせた。そして、大砲生産を始め、スエーデン撃破で、その威力を見せつける。その結果、武器ビジネスで大国化に成功したとも言える。

 よく知られるように、この状況を一変させたのが、産業革命である。鉄の作り方が変ったのである。
 どうして、そんな技術がイギリスで生まれたか。
 答えは単純である。技術開発の知恵は出せるのだが、木炭はなかったのである。

 --- 参照 ---
(1) http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p/001/10-01477.html
(2) http://www.jkcf.or.jp/history/1/1-01-hamada.pdf


 歴史から学ぶの目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2006 RandDManagement.com