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2006.11.14 |
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法隆寺の見方…聖徳太子の時代は、朝鮮半島では政情が不安定化しており、中国の出方にも注意が必要で、政治的に大変革必至という状況だったと思われる。その結果、崇仏派対排仏派の内戦や皇位継承闘争が勃発したのだと思う。 なかでも厄介だったのが、仏教問題での深刻な対立。 世界標準の仏教を導入して国を治めようというのが崇仏派蘇我氏。 これに対して、旧来の神道中心を続けるべきというのが、軍事部門を担ってきたと思われる排仏派物部氏。 この対立は、結局のところ、武力で決着したが、鎖国で生きていけるならともかく、どの道、そうならざるを得なかったと思われる。 それはともかく、聖徳太子こと厩戸王(574〜622年)が、討伐勝利を仏に祈願したとされている。 そして、蘇我氏隆盛のもと、推古天皇の摂政役を勤め、請願通り難波に四天王寺を建立した。 国内的には仏法の国へと政治構造を大転換。外交でも手腕を発揮し、独立を保った。もっとも、秘密外交で上手く乗り切った感じはするが。 特に、十七条憲法を制定したことから、律令国家への移行をはかった指導者というイメージが確立している。 ただ、本家の蘇我氏も含め、厩戸王一族はすべて滅亡し、文献的にも日本書紀でしか確認できないため、伝説の人とされている。虚構説まであり、さまざまな推測が入り乱れている状況だ。 と言っても、聖徳太子の寺、法隆寺は現存する。 ただし、焼失した若草伽藍の傍に再建されたもの。それも、死後すぐに、同じ場所ではなく、傍らに建てられている。 それに、この再建西院伽藍、よく見ると結構特殊な設計である。 これがさらなる不思議感を呼ぶ。 だからこそ、梅原猛の「隠された十字架 法隆寺論」が生まれたとも言えよう。 確かに、中門が4間で、入り口に柱があるという珍しい設計は不可思議だ。 だが、当時の状況を考えれば、当然な気がする。 仏教寺院とされるが、神道との融合を図れば、そんな設計にならざるを得ないからだ。「和」の精神を象徴するような建物にすれば、そうなるのである。 もちろん、現存する西院伽藍はその規模から見て、朝廷が支援しただろうから、厩戸王の私的な寺である若草伽藍と違う点もあるが、精神は引き継いでいると思う。 例えば、西院伽藍の入り口は標準の南面に変更されている。 厩戸王独自の私寺だった若草伽藍は故意に標準から外したのだ。このことが「和」の内実を物語る。 大神神社を見ると、三輪山がご神体(大物主神)。東向きだ。“日出ずる処”を祀っていることになる。世界標準の、南から入門し、北方を拝むパターンは受け入れ難かったのである。つまり、厩戸王は崇仏派だが、同時に従来信仰をそのなかに取り込む方針を打ち出したということ。 その思想は西院伽藍にも受け継がれている。普通の寺と大きく違うのは、左右対象でないこと。 再建した薬師寺伽藍と比べると、その違いが際立つ。こちらは、塔が東西にあり、金堂は中央に配置され、均整がとれた美しさを誇る。一方、四天王寺では塔と金堂が一列に並ぶ。仏教施設は普通はこのように整った印象を与える構成にする決まりがある。 西院伽藍はこれに従わないのだ。何故そうしたかといえば、神への信仰を取り入れたからだ。 つまり、塔とは、神が天から降下する柱なのだ。神を仏を同一視したということ。これは御柱であって仏舎利が祀られていると考えないのである。 金堂はご本尊を祀る場となる。祖先神 信仰としての釈迦像である。 神式だから、当然ながら、お社は横に並ぶことになる。前後配置など考えられぬ。 それに、神社では、内陣に建てられた神が宿る社には、それぞれに鳥居か門が設置されることが多い。そうなると、塔(自然神のお社)と金堂(祖先神のお社)に別な門が欲しいところだ。 しかし、伽藍様式で門が2つは流石に難しかろう。ということで、中央に柱がある中門が登場したということではないか。2つのお社にそれぞれ鳥居があるということ。 それに、法隆寺はどうも神社臭さを感じる。お社の周りに白砂を敷き詰めたような印象を与えるからである。 つまり、法隆寺は四天王寺とは全く違い、神社の伝統を取り入れた斬新な寺だったということ。 こんなことを厩戸王が考え付いたのは、仏教をよく学んでいたからだ。耳学問ではなく、十分に咀嚼していたに違いない。 もともと、釈迦は、自分の墓を建てて拝んだりするな、偶像崇拝も止めろ、と弟子に言っていた筈。ところが、現実には、それに全く反した宗教に変わってしまった。そこら辺りの宗教の本質をよく理解していたから、こんなことができたのだと思う。 つまり、厩戸王は、崇仏派ではあるが、神道との融合も図ったのだ。 おそらく、“一曰、以和爲貴、無忤爲宗”(1)とはそういう意味だ。 純粋仏教支持派から見れば、こんな考え方は異端でしかない。毛嫌いされたかも知れぬ。だが、現実社会では圧倒的な支持を集めたのである。 時代の転換点には、本質をよく理解しているカリスマ的リーダーが必要ということだろう。 当然ならが、仏教が広まって、朝廷が仏教を一元管理できるようになれば、こんな思想は無用となる。若草伽藍が抹消されて当然。 --- 参照 --- (1) Wikisource 十七条憲法 http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95 (画像) Wikipedia Commons 菊池容斎画 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Umayado_Miko.jpg#filehistory 歴史から学ぶの目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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