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2006.12.5 |
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日本の進路を決めた古代の大決戦…“島国根性という言葉をよく耳にする。閉鎖的で暗さを感じる使い方がされているようである。だが大小の島々からなる日本列島では、古くから活力と行動力にあふれた人々が暮らしてきた。 本来の島国根性とは、たくましさと明るさにあふれた生き方からでた言葉のように僕は感じている。”(1) ・・・至言。 今は、水上交通は大量輸送手段としての魅力しかないが、古代は、極めて優れた手段だったことは間違いない。島国の優位性をいかんなく発揮したエーゲ海文明を見ればよくわかる。 それを利用し、開かれた国ということで、ヒト、モノ、カネを大陸から呼び込んだのが日本である。 常識で考えれば、先住民がいながら、大勢の移民が流入すれば大騒動必至のはず。しかも、どう見ても単なる難民ではなく、第一級の人材が多い。間違いなく、喜んで日本に移住してきたのである。 しかも、受け入れに当たって、混血化を大前提としていたようである。 なんとも先進的な発想であり、いわゆる島国根性とは正反対だ。 この施策の結果、産業技術、文字、宗教、マネジメント、医学と、ありとあらゆるものを導入し、その力を上手く活用して繁栄に結びつけたのだと思う。 しかし、グローバル化推進は簡単なことではなかった。矛盾は勃発せざるを得なかった訳である。
おそらく、新興勢力は自由貿易をさらに進めようとしたのだろうが、軍事部門は交流を制限することで安定を図ろうとしたに違いない。聖徳太子は、その間に位置し、神仏の融合を図っていたということだろう。 その中間派が、グローバル化が時代の流れと判断したにすぎない。仏教国であることを鮮明に打ち出さない限り、国際的な活動はできないと見た訳である。 二つ目は、壬申の乱(672年)。言うまでもなく、大友皇子v.s.大海人皇子。 大友皇子とは、諡号は弘文天皇で、天智天皇の皇子で、近江にある宮をそのまま受け継いだ。 天智天皇とは、力をつけた蘇我入鹿を暗殺した中大兄皇子である。 一方の、大海人皇子とは、天智天皇の弟。もともと東宮だったらしいが、大友皇子に地位を奪われ、戦うことになった。勝利した後、飛鳥浄御原宮で即位したとされる。諡号は天武天皇。 一見すると、天皇家内部の権力闘争に、周囲の豪族が参加した、大騒動といった印象は否めない。 しかし、これは日本の進路を決める一大決戦だった可能性は高い。 そう感じるのは、皇子の名称。出自を表わす地名や氏族名にしては、余りにできすぎている。 ことのおこりは、大友皇子が、天智天皇の朝廷のもと、わが国最初の太政大臣に就任したこと。左大臣は蘇我臣赤兄、右大臣は中臣連金。(2) それまでずっと続いてきた、中大兄皇子、中臣鎌足、大海人皇子の体制が一変したのである。 人事抗争勃発とも言えるが、就任した皇子とは名前が示すように“友”を軸としているのだ。 つまり、畿内の既得権益勢力と百済高等難民のバランスを図る志向。 大化の改新以来、大陸型律令国家の道を歩んでいたが、鎌足死去、朝鮮半島での敗戦、ということで、天智天皇は即位後、改革を棚上げしようと図ったのだと思う。 それこそが、大和から近江への突然の遷都。(3) ただただ九州防衛に注力し、外に開かれた国から、国内志向に政策転換を図ったのだ。その象徴人事が大友皇子重用。 改革派の皇子の名前は“海人”である。こちらは、カリスマ的なリーダーシップ発揮が特徴。 当然ながら、国内バランス政治などとは無縁。朝鮮半島での敗戦にめげず、グローバルな視点で国力を高める政治を目指していたに違いない。 この流れを歓迎するのは、新興勢力。 グローバル化推進派と反対派の一大決戦になったということ。 当然ながら、グローバル化推進派は権力奪取したとたん、都を飛鳥に戻すことになる。瀬戸内海を通じて海外に繋がる要衝の地を捨てるなどありえまい。 そして、さらなる改革を狙う。 実際、天武天皇の政策は先鋭的である。先ず、既得権益者集団と繋がりかねない官僚システムにメスを入れたのである。 能力に応じて役職を与える仕組みに変えたのだ。 --- 参照 --- (1) 森浩一: 「古代史おさらい帖 考古学・古代学課題ノート」 筑摩書房 2007年10月 (2) http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/jiten/data/225.html (3) http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/111.htm (地図) http://www.abysse.co.jp/world/index.html 歴史から学ぶの目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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