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2008.3.24
 
 


現代のハプスブルク帝国を考える…

 小生は見ていないが、ハプスブルク帝国を取り上げたテレビの特集番組(1)が面白かったという話を耳にした。相当前に放送されたものだが、再放送もあったに違いない。
 内容は、マクシミリアン1世、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフ1世にまつわる歴史を、現地取材で紹介したものだったらしい。授業で習った名前が次々と登場し、“成る程、そういうことか”とつい見入ってしまったそうだ。

ルドルフ1世(1218年〜1291年)・・・1273年帝位
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マクシミリアン1世(1459年〜1519年)・・・多民族文化が花開く
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マリア・テレジア(1717年〜1780年)・・・多民族都市、帝都ウィーンの大発展
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フランツ・ヨーゼフ1世(1830年〜1916年)・・・民族独立運動の台頭で帝国存亡の危機
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 | フランツ・フェルディナンド大公・・・1914年セルビアで暗殺され 第一次世界大戦勃発
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カール1世・・・1918年退位 共和国樹立
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末裔(2008年現在) >>>

 なかなか時宜を得た企画だと思う。
 言うまでもないが、ハプスブルク帝国は、汎欧州の思想を底流としており、民族主義の勃興でその幕を閉じたからである。そして、第一次世界大戦を誘発した。
 思想の流れからいえば、一大帝国などより、細分化された民族国家の仕組みがよいとされたということ。

 しかし、結局のところ、それはゆり戻された。EUという名称の欧州帝国が建築されたのである。だが、再び、ハプスブルク帝国と同じ憂き目にあうのではないか、という気がしないでもない。・・・などと、日本人が考える位だから、おそらく、そんな感覚は、欧州に広がっていると思う。
 特に、ボスニア問題を眺めれば、昔とそれほど変わっていないことに驚かされる。
 ひょっとすると、このテレビ番組は、観光宣伝の歴史紹介的雰囲気を醸し出しながら、そんなことを、視聴者に示唆したのではないか。もしそうだとしたら、秀逸である。

〜 帝国敗退史 〜
1291年 スイス農民軍蜂起
1529年 オスマントルコの侵攻
1568年 オランダ独立戦争
1588年 無敵艦隊対英国戦
1618年

1648年
三十年戦争
1741年
1742年
フリードリッヒ王と戦乱
1744年 シュレージェン戦争
1797年 ナポレオンの侵攻
1848年 ウィーン革命
1914年 セルビアと開戦
 まあ、ハプスブルグもEUも、帝国の割りには、軍事力で覇権を握れないという意味では同じような印象がある。
 ハプスブルグ帝国は民族の寄せ集めだから、軍隊も同じ。見かけは巨大でも、敗退することが多いのだ。
 その伝統はEUにも、見事に引き継がれている。
 だいたい、EUが創設され、冷戦がなくなったというのに、NATO存続というのが不可思議ではある。おそらく、中心メンバーはEU“帝国”軍に進みたいだろう。だが、本音では紛争に係わりたくなさそうな大国もあるから、統合軍が創設されても弱体な組織となろう。それに、ほとんどの加盟国はタダ乗り安全保障を目指しているに違いない。
 こんな状態では、とても“帝国”軍の力など発揮しようがあるまい。
 軍事力で域内を安定させるという発想は難しいということ。

 と言って、民族協調を実現するのはもっと難しそうである。
 例えば、仏・独が協調できたところで、帝国は安泰ではないということ。
 そもそも、他民族型のハプスブルグ帝国の本質は、オーストラリア・ハンガリー帝国だ。その最大の存在価値は、北のドイツ民族と南のバルカン半島のスラブ民族間の緩衝役と見てよいのではないか。
 ところが、結局のところは、そうはなりきれなかったのである。
 その理由は、2つあると思う。

 1つは、帝国中枢地域と、周辺地域の格差を固定化したから。
 この体質は、見事な位、EUにも引き継がれている。バルカン半島で帝国中枢への反撥から火が付く可能性は昔とさほどかわっていないと言う事。
 要するに、帝国の支配階級EU15と従属的な新参諸国と周辺国という、対立の構図ができあがっているのである。セルビアとのゴタゴタの根はここら辺りにもあると見た方がよい。

 そして、2つ目は、対ロシア。
 想起されるのが、ハプスブルグ王朝とロシアのロマノフ王朝(1613年〜ロシア革命)との関係だ。ドイツと組んでロシアに対抗することにしたお陰で、スラブはロシアと組んでしまう。どう見ても、これが帝国分裂の直接の引き金だ。
 この流れも、EUの状況と、まさに二重写し。
 エネルギー確保重視のドイツと安全保障重視のポーランドの姿勢の違いは余りに大きい。その対立は余りに露骨だ。EU内での権力割譲なくしての高負担を避けようとするドイツと、ドイツに権力を握られたくないポーランドは水と油である。しかも、棚上げしている領土問題や民族紛争が俎上に乗ってこないとの保証もない。帝国の統一性どころではないのが実情。
 言うまでもないが、ここで、ロシアとドイツが組んだりすれば、新参国はこぞって米国の力の導入を図るに違いなかろう。昔からの、やり方である。ことはポーランドだけではすまないのである。
 それは確実にEU内での火種を燻らせることになる。

 平和を希求するなら、こうしたコンフリクトをどう収めるべきか、本気で知恵をひねり出すべきだと思う。
  → 「不安定化の元は民族問題 」 (2007年12月13日)
 
【突然、神聖ローマ帝国時代のハプスブルグ家にまつわる話を取り上げた理由】
 実は、前ブータン国王を評価する話を聞かされたから。歴史観ゼロだと、何も見えないことがよくわかった。

 ご存知のように、プータンはワンチュク家の絶対君主が鎖国政策を続けていた国。そんな情報コントロール状況の専制政治を褒め称えること自体が驚き。
 それに、ウイーン会議にしろ、外交では、都合のよい論理で権力の正当性を互いに主張するのが普通。そんな話を真正直に聞く人がいるのである。
 ブータン外交の場合はこんな話だ。−−“ワンチュク国王(前)は、1970年代を通じて、ブータンの国民に資するべく、種々のシステム、メカニズムの導入につき検討を行った。他国のようにGNPを増加させる政策のオプションもあったが、これを敢えて選ばず、ブータンの国民の心、文化、環境にフィットするものとして「国民総幸福量」の導入を決定した。”(2)
 それでブータン国民は大いに幸福になったと言いたい訳である。

 はたして、その実態は。
 人口、233万人。平均年齢21歳で寿命は55歳。もちろん年間所得は20万円にも達しない貧国である。こうした状況を敢えて目指す政治を続けてきたのだ。それは、絶対王政を続ける上では最良の選択だったのは間違いなかろう。

 それに、間違う人が多いが、純ブータン人の国家ではない。半分は非ブータン人。しかも、仏教国と称すが、4分の1はヒンズー教徒。
 それは何を意味するか。
 1990年以来、国連高等弁務官の難民キャンプが7箇所も開設されている。すでに10万人が逃れたようだ。
 幸福のために、ブータンの伝統生活文化を国民に強制したのだから、これも当然の結果。国民よ、国粋主義を信奉せよ、という政策と言ってよいだろう。
 幸福度調査数字が正しいなら、異なる文化の人を追い出すことで幸福感に浸れる人が多い国になってしまったということ。称賛どころではなかろう。

 言うまでもないが、“幸福をもたらす”絶対王政・鎖国・国粋主義が周囲から喜ばれたのは、中国とインドが対立状態で、緩衝役が必要だったから。しかし、状況は変わった。
 それが現実政治である。

 --- 参照 ---
(1) NHKハイビジョン特集「ハプスブルク帝国」 2007年11月12〜14日 本木敦子プロデューサー
  [第1回] 双頭の鷲の下に [五十嵐久美子ディレクター]
  [第2回] 女帝マリア・テレジア [山本明佳ディレクター]
  [第3回] 美しく青きドナウ [五十嵐久美子/濱川恭介ディレクター]
  http://www.documentaryjapan.com/lineup/lineup07.html
(2) 「ブータンと国民総幸福量に関する東京シンポジウム2005」外務省 [2005.10]
  http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/event/sy_050926.html
(3) [Bhutanの数字] https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/bt.html
(紋章) [Wikipedia] Wappen rom.kaiser.JPG http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Wappen_r%C3%B6m.kaiser.JPG


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