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2009.8.24
 
 


伊豆の古代を想う…

 東伊豆の神社の話。
 境内が狭い神社が多い感じがする。日本全国どこにでもある、村の鎮守様風。しかし、相当古き時代に創設されたものが多そうだ。もしかすると、三輪山麓の神社群より昔からあるのかも。

 南からやってきた「木」に対する信仰が残っているのも、そんな気にさせる要因である。
  → 「クスノキを眺めて 」「ナギの木を眺めて 」 (2009年5月21/28日)

 楠の場合、船材として老大木を切る際、祟りなきよう、木の精霊を祀るのは極く自然な行為だ。それに、林を守るため、「木」を神聖化したかっただろうし。
 しかし、木霊信仰以外にもあった筈。「木」とは神の降臨するところでもある。様々な霊は昇華して「神」と化してから、「木霊」と混交するといった感覚があったかも。
 そんな感覚で伊豆の神社を眺めると、古代の姿が、もっと見えて来そうだ。

 もちろん、知りたいのは、本来のご祭神だが、残念ながら、神社に掲載されている断片的な由緒書きを読んだところで、素人には判断がつかない。
 合祀されゴチャゴチャしていたり、他所から勧請された神が主祭神化しているかも知れないし、何らかの理由で場所が移転していたりと、どんな経緯があるかは想像もつかないからだ。
 想像を膨らまして、勝手なシナリオを創出する以外に手はない。

 とりあえず、ナギの木がある伊豆山神社を眺めてみようか。
 海近くから階段がずっと続いているところに神社があるが、さらに高いところにもともとの奥社があるそうだ。本来はそこが“おやしろ(社)”だったらしい。
 そうなると、大神神社(拝殿だけ)と三輪山(ご神体)のような関係で、山を御祭神とみなしがち。山頂がみえそうなところに拝殿を設置したということ。
 ところが、山頂で祭祀行為が行われていたと伝えられている。山頂で、神の存在を感じるのなら、山がご神体ということではなかろう。
 (それに、航海上の目印の山だったから、人工的な御烽火の意味あいもありそうだが、神と崇める山を燈台にすることはなかろう。)

 この山、日金山と呼ばれているが、素人的には、ほぼ十国峠。良く知られるように、展望が素晴らしい場所である。
 西は遠州と駿河の海、北は信州と甲斐の山々が見渡せるのだ。もちろん、関東に目を向ければ、武州から房総一帯を眺めることができるし、登ってきた相模湾側には、伊豆の島々が浮かぶ。まさに天下一望の感。
 現代人に、この景色を眺め、神々しいものは何だと問えば、返ってくる答えは一つしかない。「富士山」だ。
 360度見回せば、その存在は圧倒的だから当然だろう。

 しかしだ。
 古事記には、富士山は全く登場しないのである。それも、富士山が見えた筈の原野で草薙の刀を使ったにもかかわらず。富士山に関しては、信仰どころか、興味の欠片さえ感じられない状況。万葉集には、山部赤人の、神さびて高く貴ぶべき山との長歌と、“田子の浦ゆ”の短歌をを掲載しているにもかかわらずだ。[巻三-317/318]
 恣意的に削ったという見方をしたくなるが、そんなことをすれば、他にも削られたものが、五万とあることになる、何がなんだかわからなくなる。素直に古事記の記述に従うしかあるまい。

 (ご存知のように、富士山の神社、浅間神社のご祭神は木花之佐久夜毘売。古事記では、山の神の美しい姫とされ、火が放たれた産屋で子孫を作る重要な地位を占めている。しかし、富士山とは、もともとは無関係。第7代天皇が富士山大噴火を鎮めるために祀っただけなのだ。(1)不思議なことに、山の神を崇める伊豆側は、その神を受け入れてはいない。松平伊豆守が建立した、大室山山頂にある浅間神社は、富士山浅間神社に対抗するかのように、醜かった姉の石長比売を祀ったのである。まあ、伊豆一番の三嶋大社から見れば、富士山と正反対にある山だからということかも知れぬが、例外的存在なので気になる。)

 それでは、伊豆の古代人は、山に登って、何を遥拝したのだろうか。思いつく候補はたいしてない。
  ・太陽や月とか星。
  ・先祖の土地。(地図上の方角では、西の対馬か、南の神津島か。)
  ・伊豆七島か、それらが浮かぶ海。
 多分、実態から言えば、日本人得意の混交だろうが、初期は、“火を噴く島”だった可能性が高い。

 そんなことがわかったのは、三嶋大社の由来を読んでから。国府がおかれた地だから、大きな神社だが、“古くより三島の地に御鎮座”(2)しているが、伊豆における信仰の発祥地ではないのだ。
 “三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。噴火や造島を神格化したもの”(3)と見るべきらしい。
 古代人は、火山のエネルギーを頂戴したということか。伊豆の温泉が愛されるのも、精神の古層に眠っている、そんな感覚が揺り動かされるのかも知れぬ。
 実際、三嶋大社に祀られている大神の后神である、伊古奈比当スを祀った神社が、下田市白浜にある。通称、白濱神社。(4)なんと、三宅島阿古から遷座された神社である。三嶋大神も、もとはここで一緒に祀られていたという。まあ、普通はそうあるべきだろう。驚いたことに、三宅島富賀神社→下田白浜海岸白浜神社→大仁町広瀬神社→三島市三島大社と遷したそうだ。(5)

 現代人のセンスでは、孤島や、東伊豆の猫の額のような港では、発展性が乏しいから、都市の三島地区に移ったと考えてしまいがちだが、交易・信仰上の必然的な流れがあったと見るべきだろう。

 それはともかく、白浜神社とは、島を遥拝する神社である。もちろん海岸は白砂。神社の白砂と玉砂利を彷彿させる情景。
 南洋の白砂の原風景そのものとも言えよう。

 古代には、この辺りから神津島への航路があったのだろうが、交易もさることながら、祭祀行為の混然一体化した航海が行われていたと見るべきだろう。潮流に流されれば太平洋の藻屑だから、命をかけての航海だが、それこそが海人のレゾンデートルということだと思う。そして、黒曜石を、島の神から頂戴した訳だ。伊豆諸島には、本土よりずっと古くから集落があった可能性も否定できまい。

 たいたい、コレ、とてつもなく古い時代の話なのだ。
 古代の石材と言えば、砂岩か粒紋岩だった。それが、ある時から黒曜石が登場し始める。3万年前らしい。(6)
 そして、ご存知のように、その石のなかに、神の港がある島、神津島産がある。大神の3御子の家があった「三宅島」のお隣の島である。伊豆山神社の状況を考えると、この島でも、どこかに椰の木を植えている筈。神社は3つあり、その一つは、下田同様、美しい浜に面しているという。大神の后、阿波命が祀られているそうだ。(7)他の2つの神社は御子。
 なるほど、そうなのか。

 こうして見ていると、古代、神津島→大島→初島→伊豆山[熱海]の相模湾側の海路と、下田白浜から山越で、大仁→三島の山道の2つのルートがあり、両方とも結構使われていたと思えてくる。同時に、この流れは、巨大樹木調達地域の変遷も現していそうだ。
 伊豆一帯は、黒潮にのって船を操る海人の一大故郷ということ。
 しかし、その海人が尊崇するのは“ワタ(海)ツ(の)ミ(神)”ではなく、“ヤマ(山)ツ(の)ミ(神)”である。木花之佐久夜毘売の御子、山彦の話を思いおこさせる。

【神社については以下のように言われているようです。出典忘却。】
・大神神社は拝殿のみ。これが信仰の基本形。
・祭壇が仮設され、そこに神が一時訪問する建物は、「屋代[ヤシロ]」。・・・社
・祭壇が常設され、そこに神が常時滞在する建物は、「御屋[ミヤ]」。・・・宮
・神が化身するお宝を、守り収めておく倉庫は、「神庫[ホクラ]」。・・・祠
・仏教では、魂が込められた像がお堂に設置されるが、それは拝殿も兼ねたお「寺」。
 寺と仏塔などを一括りすると「院」。

 --- 参照 ---
(1) 富士本宮浅間神社 御祭神・御由緒 http://www.fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html
(2) 三嶋大社 http://www.mishimataisha.or.jp/Page/saijin.htm
(3) 「三嶋大社」 玄松子 http://www.genbu.net/data/izu/misima_title.htm
(4) 「白濱神社 御由緒」 http://www6.ocn.ne.jp/~ikona/newpage14.htm#
  「白濱神社 伊豆ノ国最古の宮」 http://www.izuneyland.com/shirahama/sjinjya/sjinjya2.html
(5) 「富賀神社の歴史」富賀神社の歴史 http://www.miyakejima.com/toga/history.htm
(6) 小田静夫: 「黒曜石研究の動向」 http://www.ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm
(7) 「阿波命神社」 玄松子 http://www.genbu.net/data/izu/awa_title.htm
(地図) (C) (株)地理情報開発 http://www.chiri.com/


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