→表紙 | 2013.8.11 |
| …古墳の形状分類の見方…「謎の前方後円墳」といった調子の記述が多いが、冷静に眺めてみれば、なんの不思議も感じられないが。どうして素直に眺めないのか、そちらの方が余程謎。ともかく、結構大切にされてきた墓である。ずいぶんと壊されてしまったとはいえ。 複雑に考えなければ、歴史の流れを感じることさえできれば、墓として当たり前の形状ではなかろうか。素人目には、特殊でもなんでもないのである。 「墓」の歴史における「前方後円墳」の位置付けをはっきりさせないままでただ、歴史観なく、細かな点に注目すれば、当然ながら、ああでもないこうでもないと論争は尽きまい。それは、アップル・オレンジ論争化の道。 ついそんなことを思ったのは、「死」の概念が生まれたのは3〜4万年前かナと書いたから。 → 超古代時代区分の重要性 [2013.8.6] まあ、素人のいい加減なお話ではあるが、常識で考えれば、墓の日本通史はこんな時代区分になるのでは。 - 「死体無視」 ・・・常時移動生活 - 「原初的な墓」(死体放置場) ・・・「死」の概念(あの世)誕生 - 「葬」の始まり ・・・集落外「死体埋葬」(「死」の穢れ感) - 「殯」(白骨化)の導入 ・・・体(肉)と霊(魂)の二元論信仰 - 「葬儀」化 ・・・集落近辺/内部での墳(骨埋葬)/副葬品作り - 「墓制」構築 ・・・政祭の一環としての葬儀 U - 「伝来仏教型墓制」への変革 U 注意して欲しいのは、これはものの見方。ストーリーが感じられれば、まあ、そこそこ妥当と見てよい。直観的におかしいと思ったら捨てるのみ。そんなものである。先ずは、「概念」形成ありき。 ともあれ、「墓」の概念がなんとなくでもつかめれば、古墳の形状分析にどういう意味があるの?という疑問が浮かぶ筈。この質問に明快に答えることができるかが出発点。 小生なら、所謂、「古墳時代」の首長を中心とする墓の形状分類は、以下の3種類とする。(網羅的にしたいなら、その他を入れ4種類になる。該当する古墳があるかはわからぬが。) (1) 横穴/洞窟系 (2) 円墳/方墳系 (3) 前方後円墳系 「系」としているからおわかりになると思うが、これは「墓」をどのような土木工事で作るのかという視点で分けたもの。コレ、古墳の知識を持っているとトンデモない見方になるだろうが、極めて常識的な発想。どうして工事が違ってくるかと言えば、生活(産業)基盤と物理的な地形のせい。地域で千差万別なのは当たり前。前方後円墳を造るのに不適な地もあるのは当たり前では。つまり、場所での分類である。 (1) 海沿いや、内陸でも崖が多い地帯 (2) 丘陵あるいは堅固な地盤が傍にある地帯 (3) 湿地帯や川沿いの地帯 もちろん、地域によっては、どれでも可能ということはあろう。そうなれば、首長の判断如何。従って、大和の前方後円墳地域との、政治・宗教的な紐帯の深さを、墳墓の類似性から推し量るべきではないと考える。棺や副葬品から想定される文化的類似性ならわかるが。 前方後円墳は全国に分布しており、そのうち巨大なものは畿内に集中している。そうなると、政治的に設定された統一墳墓形態と見がちだが、上記の分類の視点で畿内の古墳を眺めると、それは強引な主張という感じがしてくる。ココは少々解説が必要か。 その主だった特徴を解釈すると、次のようになる。 ・形はバラバラ。 ・・・統一設計思想があるとは思えない。 ・円と、それ以外の部分の比率がマチマチ。 ・・・バランス感を欠く。 ・儀式用と思われるが、方角は場当たり的。 ・・・太陽信仰と墓形は無関係。 ・ほとんどが丘陵の下である。 ・・・水の地域ということ。 ・周囲に多数の円墳を抱えている。 ・・・墓地域感覚が残っていそう。 ・規模がとてつもなく大きい。 ・・・使用する土砂の量が半端でない。 (小山を上手く使ったように見えるものもあるが。) ・3段構造である。 ・・・多分、墓地の基本構造。 ・棺は墳墓の上部にある。 ・・・都合もあるが、宗教性を示していそう。 ・他の墓とゴチャゴチャと混み合っている。 ・・・その時の感覚で場所選定。 上記の分類の視点で眺めている素人からすれば、ソリャ当然だネとなるのだがおわかりだろうか。 一言で言えば、慢性的な土木工事王国ならではといったところ。こんなことを言うとナンダカネの世界に映るが、それこそがこの社会の中核的価値観では。間違えてはいけないが、あの世信仰に凝っていたというつもりではない。逆である。プラグマティズムかも知れない。 前方後円墳とは、墓であるだけでなく、他の土木工事から発生する土砂置き場でもあったということ。大規模治水や田畑改良工事が徹底的に行われたことは間違いなかろう。首長が執り行う生産体制再構築の大工事は、墓作りも兼ねていたのである。 そんな土木工事が不必要な地域もあろう。それなら、墓は、丘陵の円墳で十分なのだ。おそらく、ほとんどの首長はこちら。大和のように、次々と大工事をしたくなる地形はそうそうあるものではないからだ。古墳の9割以上は円墳だったと考えてもおかしくなかろう。(尚、方墳は円墳系の例外形と見た。宗教観の大きな違いを示しているというより、部族の系譜と言うか、歴史に基づいた、その地域独特の美的自己主張にすぎまい。古墳が破壊されず残存しているからには、その思想が他者から容認されていたのだから。) 前方後円墳構築にあたっては、土木工事で出た土砂を乾燥させてから、主に船で墳墓の場所まで運んだと思われる。そうなると、出土状況と運搬体制で墓の設計が決まることになろう。従って、規模が大きい墓とは首長が長生きしたか、大規模工事に賭けたことを意味しよう。この体制だと、途中で死去すると、墳墓完成は相当に遅れることにならざるを得まい。普通は、生前に盛り山だけが完成し、「殯」の数ヶ月間に、上部の真性「墓」部分を形成し、周囲を飾るだけと思われる。 言うまでもないが、大型土木工事、土砂盛り型の墓造り、墳墓での葬儀の挙行にはそれぞれの専門家が不可欠。限られた人材だから、全国的に前方後円墳が広がっているということは、専門家が派遣されたことを意味する。首長間になんらかの紐帯が生まれているからそんなことができる訳だ、しかし、それを中央集権体制の証拠とする訳にはいくまい。 ただ、大土木工事を進める力量で、畿内が突出していたのは間違いなかろう。 このように考えれば、工程上、前方後円墳の一段目とは単なる湿地の地ならし敷地と考えざるを得ない。首長の治世が長ければだんだん大きくなる可能性はあるが、他所での土木工事の都合に合わせ、工事開始時点で設計が決まると見てよかろう。船で土砂を運ぶのだから、川筋や船着場の設計に合わせて墳墓の方向も決まってこよう。 その二段目が、円墳で言えば丘陵上の墓域土台にあたる。墓の一般形式から外れた特殊な設計がされている訳ではない。 そして3段目が円憤の大型土饅頭にあたる。ただ、確かに、ここで円憤とは全く違う設計思想が見てとれる。棺は墳の中というより、墳の上部にあるからだ。棺の存在を外部に知らしめるような形だ。霊魂が悪さをしないように閉じ込めるかのような埋葬ではない。土に返すという発想を捨てた訳だ。(その思想は、前方後円墳出現前の可能性もある。) 一般には、墳墓上で祭祀可能なように飛び出した部分が特殊となるが、どうでもよい話では。そちらを墓にしてもかまわない状況なのだから。 工事を考えれば、坂道を作って、完成後それをすべて壊すのは厄介。しかも、円部分での土砂量調整も簡単にはいかない。しかし、つけたし部分があるとそれは一気に解決。バッファー役であり、祭祀規模と式次第に合わせて適当に形を整えればよいだけの話。発生土砂量と使用土砂量の見積もりが正確になれば、墳墓形状の統一設計指針も出せる筈だが、そこまで注力する意味はたいしてなかろう。 こんな風に見るのは、倭人は鏡好きで、鬼道の主宰者を首長に祭り上げているとされれいるから。 要するに、鏡は実用品ではなく、あの世と繋がるための宗教用呪術用具ということになる。たとえ、洞窟葬でも、副葬品として鏡が入っているなら、前方後円墳のベースになっている信仰と違いは僅か。水利土木工事不要の地域だから、前方後円墳を造らないだけのこと。 ただ、前方後円墳では、あの世に送り出す葬儀だけでなく、あの世に逝ってしまった魂を墳墓の上に呼び戻す祭祀も行われていた可能性がある。土木工事箇所がその後も平穏を保って欲しいとの願いを逝った首長の魂に伝えたい筈だから。 大嘗祭は古墳祭祀を廃止する流れで登場しているようだから、そう考えてもおかしくはないが、なんとも言い難し。そうそう、その場合、祭祀場は2つある。古墳以外でも儀式が行われたことを示唆していそう。 歴史から学ぶの目次へ>>> 表紙へ>>> |
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