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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.31] ■■■
[附67] 今昔の部最終回
🈡「今昔物語集」を読み進めていく過程で、感じたことを書きなぐって来たが、ここで一段落としよう。

と言うことで、面白くない話で申し訳けないが、感想で〆とさせて頂こう。

一言で言えば、"実に面白かった。"

と言っても、作品そのものというよりは、事典類の解説に思わず苦笑させて頂くことが多かったから。

これではわかりにくいか。
全くかけ離れた例でご説明させて頂くと、こういうこと。・・・

名称がCEOになったところで、日本では、3つの質問をする能力があれば勤まる職種である点は従前通り、とはよく言われるお話。
  前例はあるのか?
  お上はどう言っているのか?
  君達はどう思うのか?

それは「古事記」の時代から連綿と続いてきた日本人の基本姿勢と言う人もいる。それを聞いて、そんなものかもしれませんな、と妙に納得してしまったりして。・・・
ともあれ、我々はそんな世界に住んでいるのである。
もちろん、これを揶揄的発言ととらえて、姿勢転換を声高に叫ぶ人も少なくない。なかには、こんなことでは日本は駄目になると真顔で語ったり。
喜劇役者は実は前者ではなく、真面目に憤慨する後者。・・・このことが直観的にわからないと、「今昔物語集」を読み通したところで、"実に面白かった。"とはならない。

当たり前だが、これに限らず、日本の風土は特殊。
しかし、負けず劣らず、天竺も、震旦もそれぞれに特殊。社会構造が全く異なるし、歴史観も違うのだから当然の話。
「今昔物語集」を読むと、そうした違いを感じ取ることができるからこそ、価値があるのだ。つまり、天竺で生まれた仏教がさらに震旦、本朝と伝わっていく過程でどう変化し、それはどのような理由からかを考えることで、物事の本質が見えて来たりするのである。
これに挑戦しないなら、本朝世俗部の気にいったネタを読んで楽しんだ方がよいと思う。それに十分応えることができるように、擬音や発言を多用して臨場感を醸し出した上で、説教臭を消し去った作品に仕上げてあるのだから。

要するに、「今昔物語集」の醍醐味とは、読み通すことにより、天竺・震旦・本朝が互いに全く異なる文化圏であることを"概念的"に認識することができる点。その結果、世界観が広がっていくのである。

もっとも、そんなことが可能な人は極く稀にしかいないことが、コロナウイルス騒動でよくわかった。今迄、まともに見えていた方々が、揃いも揃って無知蒙昧な人達のレベルとほとんど変わらないことがはっきりしてしまった。その知的水準の余りの低さに唖然とさせられたが、本人はそれに全く気付いていないのである。まさに、悲劇というか喜劇というか、なんとも言い難し。
ただただ目立つことが嬉しい人々だらけの社会ということか。
マ、社会とはもともとそういうものなのだろう。「今昔物語集」編纂者はそこらをよくご存知だった。

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