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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.22] ■■■
[附60] 智の生み出し方
ママ引用もあるが、微妙に、部分的に手を入れることが多いのが「今昔物語集」の特徴。それは、ある意味、様々な経典に触れたせいでもあろう。
翻訳によってかなり違ってくることもあるが、受け取り方や、解釈が千差万別なのは読めばすぐにわかる訳で。実際、一生かかっても目を通すなど不可能に近い経典群が生まれているのだ。

同じ説教場面を読んでも、それを、どう解釈するかは読み手にかかっていると言えないでもない。

「今昔物語集」編纂者はこの不思議さというか、面白さに嵌った可能性が高い。
元ネタは明らかに仏教の説教用として書かれていても、その感覚からフリーになって楽しもうとの姿勢が貫かれているからだ。

仏教部の話が世俗部の話と比較して、概してつまらぬと感じる人が多いが、それは仏教部の目的が教義や思想を伝えようとする意志があるものとの大前提で読んでしまうからでもある。
一般にはその通り。
仏教説話の著者は、だからこそ価値があると考えており、読者もそれを期待している。
従って、その手の話から引用している以上、世俗部との違いは大きく、落胆して当たり前。

しかし、この感覚は、仏教説話の著者には、おそらくわからないだろう。

例えば、カルトからの脱出を、カウンセリングや親近者説得で果たそうと努力しても、その効果がどの程度期待できるかという見方の違いと言ってもよいかも。
小生は、その誠意のほどはよくわかるものの、冷徹に見れば、プラスにもマイナスにも働く行為でしかないと思う。
ヒトが無意識的に歩行しているのと同じで、すでに頭の構造が固まっていれば、それを意識せよと言われても、馬鹿げた話以上としか感じないからだ。

それを変えることができるのは、本人が"直観"で気付いた時だけ。
外部から働きかけて気付かせることができると考えるのは、小生は、間違いと思う。
たまたま、波長が合えば、そう見えることもあるというに過ぎないのでは。

ここらには、大きな誤解が存在しているように思う。
我々が普段言うところの"気付き"とは、方法論を教わってそれを適用するだけか、仲間意識を求める模倣と考えた方がよい。
本人は大感激していても、そこに"直観"が働いていることは極めて稀。

これ以上説明はしないが、「智」とはこの"直観"に他なるまい。「知」ではないのだ。

「今昔物語集」編纂者は、明らかに、そこに気付いている。

元ネタに記載してある、○○語録や経論の類を外していることが散見されるのは、そのような「知」を語る気がない姿勢を反映していると見るべきだ。
そして、なんと言っても、譚末に、まとめ、感想、ご教訓、といった類の一行を付け加えている点。・・・この点については何度も記載したが、この一行をまともに受け取る必要はない。

論理、教義・思想、といった理屈から、こう結論がでますナ、という考え方をひとまず棄てヨ、と言っているのだから。
それは「知」でしかなく、それを磨くことは大切だが、いくら追求しても「智」には到達しえないから、当方主催のサロンに是非にもお越し下さいませと勧誘している訳だ。

従って、譚末一行を読むと、なんだかわからぬ結論に至っているいるように感じたり、おかしな見方と思ったり、えらく曖昧に書いてあり不満を覚えることもある。場合によっては、なんだか分からぬ調に出会ったりも。
これは、"読者は、自分で考えヨ!"と提起しているに等しかろう。
正確に言えば、「今昔物語集」編纂者自身も考えている訳で、読者と一緒の立場で時間を費やしたいのです、と言っているようなもの。
読者に、そんなことが楽しい人だけが集まるサロン気分を味わってもらおうとの嗜好。

要するに、読者には、仏法部と世俗部の枠を飛び越えて、自由自在に逍遥して欲しいのである。
それができて、初めて、自分が概念化している「仏法」をも、批判的目で眺めることができるようにもなる。
ガツンと一撃を喰らい、目が覚めることもあろうという訳である。

読んでいて、そんな気付きが生まれる保証はないが、得られたら凄いではないか、といったところ。

ただ、無「知」でも結構と言っている訳ではなく、逆である。だからこそ、天竺・震旦・本朝をカバーする1,000譚以上の書になるのである。無「知」を賞賛する人々も大勢いる社会ではあるが、広範囲に目を向け俯瞰的に眺め、「知」を磨くのは大前提。それなくして「智」の獲得などあり得ないからだ。

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