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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.30] ■■■
[附49] 非仏法宿報論
"ドミノ倒し/将棋倒し"は帰納法の論理を説明する際に使われることが多い現象である。非論理的な教え方で論理構築の手法を学ばされるのだが、そうは感じない人が大半である。
マ、そんなことが気になる人は哲学者や数学者への道を選ぶことになるのだろう。

"因果の理法"の説明にも似たところがある。
「今昔物語集」編纂者はそこらに気付いていたようである。
だからこその巻建て。
それが巻二十六 本朝付宿報。📖

小生は、"因果の理法"の最良の解説は、浮世草子の"風が吹けば桶屋が儲かる。"と見る。
わかった気にさせられない点が秀逸。

「今昔物語集」編纂者も、多分、同じ見方だろう。仏法を尊崇しているものの、一般的な解説は"百害あって一利なし"と考えている筈。
社会は複雑な作用・反作用の集積であって、それを単純な因果関係で説明するのは、自分の都合で選択的に事象を眺めているに過ぎず、それでは現実を直視できないという見方。
当たり前のことだが、これができないのが人間のサガ。

そこらを扱ったのが、宿報の巻、全24譚。
  -----1〜2 親子遭遇-----
  -----3〜5 命拾い-----
  -----7〜10 転地繁栄-----
  -----11〜18 財物獲得-----
  -----19〜24 寿命-----


この題名だが、純粋な仏法用語で、他の場面で使われることはない。にもかかわらず、本朝付仏法(巻十一〜二十:十八は欠巻)に収容せずに、非仏法の巻にしている。
  宿報=依宿世業因而感之果報 [丁福保;「佛學大辭典」1922年]

読めば理由は自明である。
宿世に於ける業の因で、現世で報いを受けるという流れがあるという主張を裏付けるストーリーになっていないからである。もちろん、そう読みたければ、勝手に付け足してそう読めるようにもなっていないこともないが、どの譚であれ、そこからは"因果の理法"は見えてこないのである。
仏法解説にはいったって不向きな譚しかないが、どうしても収載したかったから設定した巻と言うことになる。

素人からすれば、どうということもない、なんの不思議感もなき企画と言え、単に、直截的な仏法話にするのが難しいに過ぎない。
 ○因となった業は不明
  そのため、
 ○善行/悪行が果報をもたらしたとの説明は不可能
  当然ながら、この事象を論拠にした
 ○善行のお勧めは無理筋

間違ってはいけないのは、反仏教思想家、あるいは、"因果の理法"否定論者の主張ではないこと。

直接関係はないが、その理解に役に立つかも知れぬので、少々長くなるが、引用しておこう。・・・
  [小林秀雄「私の人生観」@新潮社版全集第九巻24-25頁]
釈迦は、菩提樹の下で、縁起法というものについて悟る処があったと言われている。無論、専門の学者にはいろいろと議論があるに違いないと思うが、平ったく言えば、縁起法とは因果の理法のことだ、と言ってよかろうと思います。・・・
釈迦の哲学的思弁が、遂に空という哲学的観念を得たのではない。
いや、それよりも、彼にとって、空とは哲学的観念と呼ぶべきものではなかったでありましょう。
ただ、彼の絶対的な批判力の前で、人間が見る見る崩壊して行く様を彼は見たのだ、といったほうがよい様に思われる。・・・
・・・人間的な立場をことごとく疑って達したところには、空と呼ぼうと火と呼ぼうとかまわぬが、
人間には取り付く島もない、因果律という「無我の法」が現れたに相違ない。
そして、無我の法の発見は、おそらく釈迦を少しも安心などさせなかったのである。
人間どもを容赦なく焼き尽くす火が見えていたのである。進んで火に焼かれるほか、これに対するどんな態度も迷いであると彼は決意したのではあるまいか。
心無い火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃えないと誰に言えようか。それが彼の空観である、私にはそう思われます。・・・
最も人間くさくない因果律は真理であろう。
しかし、(宇宙のかくの如き在りかたを示す)真如ではない。
truthであろうがrealityではない。
釈迦は諸行無常をまた、一切諸行苦とも言っている。彼には、無常と苦は同じものなのであって、存在の理解と価値の判断は、同じ行為なのである。


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