→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.22] ■■■ [附47] 源俊頼 家系的には、歌詠みの力は、父の薫陶と、富豪と思われる養子先での歌合関係者との交流で培われたということのようだ。 歌にほぼ専念したせいか、官職的には、父と比べるとほとんど昇進の道は閉ざされていたように映る。 ○経信[1016-1097年] 正二位大納言 │[小倉百人一首#71]夕されば 門田の稲葉 おとづれて │┼芦のまろやに 秋風ぞ吹く[「金葉」秋#183] │ ├┬┬┐ ○道時/通時[1045-1120年] ┼○基綱[1050-1117年] 従二位権中納言 ┼┼○俊頼[1055-1129年] 橘俊綱養子 ┼┼│┼┼近衛少将→左京権大夫→従四位上木工頭 ┼┼│┼┼[小倉百人一首#74]憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ ┼┼│┼┼┼激しかれとは 祈らぬものを[「千載」恋二#707] ┼┼│┼┼→(C)mfaBoston 前北斎卍:「百人一首姥か恵とき 源俊頼朝臣」(下絵) ┼┼│○信証 ┌─┘ ├┬┬┬┬┐ ○俊重<勅撰歌人> ┼○俊恵[1113-1191年]…東大寺僧<勅撰歌人> ┼┼┼┼[小倉百人一首#85]よもすがら もの思ふころは 明けやらぬ ┼┼┼┼┼┼閨のひまさへ つれなかりけり[「千載」恋二#765] ┼┼○俊盛<勅撰歌人> ┼┼┼○祐盛<勅撰歌人> ┼┼┼┼○待賢門院新少将 待賢門院[1101-1145年]女房<勅撰歌人> ┼┼┼┼┼○堀河院典侍 僧正隆覚室 僧正隆覚室 源師俊室 歌人としては、時代的には「古今」と「新古今」の中間だが、文芸意識を確立させたという点で画期的な貢献を果たしたとの見解が多いようだ。 歌論書の主張からすれば、詩情や表現の「珍しき節」重視ということになる。叙景歌から卑俗滑稽誹諧歌や田園歌までジャンルの多様化に力を入れるとともに、題材も万葉語から俗語・奇語の類まで広範に展開することで、活性化を実現した訳だ。 年譜的には以下のような活動をしたらしい。 <楽人> 篳篥名手 承暦内裏歌合 <出詠> 四条宮扇合 1089年 郁芳門院根合 1093年 高陽院七番歌合 1094年 <大宰権帥 父逝去(1097年)帰京時悲嘆哀傷歌> <歌合出詠・判者> 源国信家歌合 1100年 藤原俊忠家歌 1104年 内大臣忠通家歌合 1118年 <堀河院歌壇中心> 堀河院艶書合 1102年 "堀河院御時百首和歌"企画 1102-3年…16歌が人が四季・恋・雑の100題で献詠した歌集) 藤原公実 大江匡房 源国信 源師頼 藤原顕季 藤原仲実 源俊頼 源師時 藤原顕仲 藤原基俊 隆源 肥後 紀伊 河内 源顕仲 永縁 <勅撰和歌集>撰者 913-914年「①古今」 957-959年「②後撰」 1005-07年「③拾遺」…花山院、藤原公任 1086年 「④後拾遺」…藤原通俊 「⑤金葉和歌集」…源俊頼 1124年 初稿 1125年 改撰(流布本) 1126年 三撰承認(私撰扱い本) <歌論書> 「俊頼髄脳」1113年 <歌合出詠・判者> 「永久百首」 藤原忠通家歌合 実行家歌合 1116年 雅定家歌合 1118年 人麿影供 1118年 藤原顕季歌合 無動寺歌合 1122年 奈良花林院歌合 1124年 <家集> 「散木奇歌集」1128年 「今昔物語集」編纂者主宰のサロンの人々はおそらく源俊頼論賛同者だろう。 それは、沈滞を生み出す保守的流れを打開したいからと言うよりは、"現代"作品をけなし、"過去"作品を絶賛することで、自分だけがそれをわかっており、とびぬけた人物と主張する御仁を相手にしたくないだけのこと。 個人の自由精神を大切にしたい人々と、管理すること、あるいは管理されることが嬉しい人々の間には深い溝があると見て間違いなかろう。 音感とリスムという点で、極めて現代的な感性で詠まれている源俊頼の歌があるので、それだけ引用しておこう。ただ、そのかわりと言っては何だが、情景のピントはぼける。・・・ 【野風】 夕されば 萩女郎 靡かして やさしの野辺の 風の景色や 【野】 さまざまに 心ぞとまる 宮城野の 花のいろいろ 虫のこゑこゑ 小生は、ココに「俊頼髄脳」の主張が詰まっていると見る。 個々の作品で、その焦点や問題意識を常識に従って直截的に表現する必要は無いという思想が根底にあるのでは。だからこそ、詩的語彙には、とことん拘る必要があるし、お題や語彙も広範に選ばないと意味が薄くなる。つまり、個々の作品では、読者が勝手に解釈して結構という当たり前の原則を鮮明に打ち出したのである。 このことは、作品の集成を眺め、そこから全体観を得て、初めて文芸的に大きな意味が産まれてくることになる。 「今昔物語集」「俊頼髄脳」は同ジャンルの書と言えなくもない訳だ。ある意味、博物誌的。だからこそ、そこから、世界を認識する力を頂戴できることになる。但し、両者の知のレベルは比較できるようなものではない。 【参考】俊頼の子の時代、和歌は自己表現そのものとされており、一方、経書の類は、不可欠な教養とされ、ただただ丸暗記すすものとみなされていたようだ。・・・ 上臈は晴にては、全て、"経史文"事第一事にて、之を語るべし。 "日記"事は強に云うべきでない。家の秘の故だからだ。 次だが、"詩歌"の事は、之を語るべし。 "和歌"の事なら、自我の上臈に逢い、矯慢にして自讃しても、悪いことではない。 @1145-1151年(知足院関白 原忠実[談] 大外記 中原師元[筆録];「中外抄」1137〜1154年) (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |