→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.11] ■■■ [附 34] ヒューマニズム? 従って、どうしてもこの視点で「今昔物語集」を読んでしまいがち。そうすると、全編薄っぺらい話になりかねないので注意したほうがよさそう。 と言っても、仏教的ヒューマニズムという概念がはたして存在するのかもわからないので、たいしたことは書けないが。 例えば、ミルクしか飲めない、乳飲み子と余命いくばくもない"家長"の老人がおり、両方生きていくには手持ちの量では無理な時どうするか。 当然ながら家長が判断することになる。 二人で分け合って、最後の喜びを乳飲み子と共有して死んでいくこともできようし、遺言の上、皆にみとられて自分だけ静かに死んでいくのもあり。 もちろん、当然のように、黙ってミルクを飲み干すことも可能だ。 儒教ではそもそも議論が持ち上がることはないが、それとは別な理由から、こんなことをグダグダ議論しても意味はない、というのが「今昔物語集」編纂者の姿勢だと思う。 そんな風に思わせる譚としては、妊婦斬殺胎児肝使用という極悪非道としか言いようがない話があげられよう。不思議なことに、その当人はそれによって想像を絶するような仏罰を受ける結末を迎える訳ではないのだ。 その一方、一寸した不注意のようなことをしでかすだけで、地獄に落ちて拷苦を受けてしまう話は数多い。僧には厳しいということかも知れぬが。 しかし、魚一尾食すのと、この殺戮を対比して考えれば、えらく不釣り合いに映る。 このことは、ミルク話で言えば、老人が乳児の命と引き換えに生き延びたとしても、それが果たして妥当かという風に問題を立ててはいけないということを意味してはいないか。 生き延びることができないと、どのようなインパクトを与えることになるのか、冷徹に判断した上で、自分だけミルクを飲もうと決心したなら、他人が云々することではなかろうということ。 因果関係は錯綜しており、単純化してひとつの事だけ見ても、本質はわからないと指摘したいのではなかろうか。全体を俯瞰できて、ようやくにして物事の関係がわかってくるという、当たり前の話である。 漁撈が生業で、生きていくにはそれしかないのに、魚を殺すと仏罰というような単純脳細胞的反応は避けよと主張しているのだろう。 この程度なら、こんな風に冷静に話せるが、生き延びるために、生まれてくる孫の肝を取るとなるとそうはいくまい。機転を利かせて事なきを得るものの、その代わり、召使の妊娠者が無残にも殺されてしまうのだ。 さあさあ、これをどう考えるか、という問題提起がなされている訳だ。 ただし、手段はどうあれ、これで生き延びてもらえれば、社会の大混乱は避けられるのも確か。 そうだとしたら、この行為を極悪非道と考えるべきかはなんともいえぬのでは、と語りかけているのである。 現代ヒューマニズム信仰に染まっていると、ここらは理解できまい。 ここで注意しておくべきは、これが儒教的"孝養"からの判断となると、話は別という点。繰り返し述べているが、ここは非常に重要である。 国家は、官僚制的統制で社会の安定化を図るしかない。その副作用もただならないものがあるものの、これなしには、どうにもならない。その組織運営上の倫理観のベースは儒教。 しかし、それを個人精神の信仰領域に持ち込む動きは絶対に容認できないとの姿勢は、確固たるものであることを見逃しては拙い。 ここらが、震旦と本朝の風土の根本的違いでもあるからだ。 だからこそ、事実上名目化してしまったとはいえ、今もって日本は仏教国なのであろう。 もっとも、ここらは、概念把握力が弱いと理解できないかも。 例えば、仏教の位牌は儒教の宗廟礼拝に似たところがあるが、血族とは無関係な戒名がつけられる限り儒教の宗族信仰とは一緒になれない。森鴎外が、タイトル無しの個人名の林太郎で死んでいったように、ヒエラルキーのなかに位置付けられるなどマッピラ御免というのが日本の風土である。 他の血族との角逐を、子々孫々迄未来永劫繰り広げるのが儒教である。死んでも組織の一員として血族をお助けしなければならぬのだ。そんな信仰者と一緒にされたのではたまらぬということ。 ともあれ、本朝流は、傍目には、融通無碍なのである。 それは、どうにでも考えられるという現実に即したものだからでもある。 例えば、田舎者の受領が、若き殿上人達から、いかにも理不尽で執拗な虐めを受ける話がある。けしからん振る舞いであることは、説明の要なし。しかし、編纂者はこれを醒めた目で眺めている。 その理由は、全編読んでいればすぐわかる。何年も渇望していた地位がようやく得られ、ここぞとばかり徹底的な収奪で富裕となり、つけ届の効果も絶大で、ついに特別な役割まで命じられるに至っただけ。身分だけ貰って実権ゼロの若造達から、そんな御仁が、イジメを頂戴しているのである。 このご教訓を読者はどう描くかネと迫っているともとれる。 もちろん、そうは読みたくない方は、それで大いに結構という態度で終始しているのである。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |