→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.1] ■■■ [附 30] 鳥羽院の命 「宇治大納言物語」は、内容に色々問題が出てきて、すでに公開されなくなっていたのではあるまいか。しかし、鳥羽天皇はその志向を大いに気に行っており、同様な書が欲しくなったと考える訳である。 74代[1107-1123年]鳥羽天皇 1103年 誕生・母没 祖父白河法皇養育下立太子 1107年 即位 (父 堀河天皇崩御) 1112年 白河法皇還暦御賀の儀で催馬楽 1123年 第一皇子崇徳天皇に譲位 1129年 院政 (白河法皇崩御) 1141年 崇徳天皇近衛天皇(3才)に譲位 1142年 法皇…東大寺戒壇院で受戒 1155年 崇徳上皇弟後白河天皇即位(近衛天皇崩御) 1156年 崩御 「宇治大納言物語」の編纂者 源隆国は勤めが長く(三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇)、慶滋保胤の勧学会同様、延暦寺阿闍梨数人との共同編纂で、浄土教経文資料集「安養集」1071年を編纂している。宇治平等院南泉房にそれを進めたサロンがあったということだろう。書の構成は「往生要集」を踏襲しており、三国の経・抄・論・釈から抜いてきた、補遺集という位置付である。 サロンには、俗人が参加していておかしくなく、そこでの雑談から物語集が生まれたのだと思う。 1004年 誕生…醍醐源氏 源俊賢の二男(幼名:宗国) 1034年 参議 1061年 権中納言辞任 1067年 権大納言 1077年 出家後逝去 鳥羽僧正はこの源隆国の子であり、鳥羽天皇が新「宇治大納言物語」編纂を命ずるなら、他の人物はほぼあり得まい。 鳥羽僧正覚猷[1053-1140年]は、絵の才能が飛びぬけていたことで知られるが、開花した理由は密教関連絵画を学び続けたからであり、経典についての注力もただならぬものがあったと見てよいだろう。 さらに特筆すべきは、その性情である。 「宇治拾遺物語」巻三#5"鳥羽僧正国俊と戯れの事"には、それがわかる話がある。・・・ 白河天皇の時代の殿上人源国俊は僧正の兄弟。(物語では故意に甥と記載してある。) 国俊が僧正に会いに行くと、あまりに長時間待たされ続けた。流石に、立腹し、帰ることにした。ところが、国俊の牛車が外出に使われていて出られない。仕返しに、湯舟の藁敷を取り去り、碁盤を逆さに入れてわからなくしておいた。帰ったら風呂でゴロンが楽しみの僧正、ザブンと湯舟に入った途端に失神。一方、帰宅した国俊は敷き藁を牛の餌に。 この調子でのお付き合いができる方である。サロンの自由闊達な会話などお手のもの。それでこそ、「今昔物語集」編纂作業そのものと言えよう。国俊のような在家と、比叡山、園城寺、南都の学僧が入り混じるような状況ではなかろうか。 1053年 誕生…「宇治大納言物語」作者 源隆国九男(初名:顕智) 若年時出家@園城寺…師:宇治大僧正覚円(関白藤原頼通の子)[1031-1098年] 1079年 法橋位…法成寺塔供養(再建) 1081年 四天王寺別当 園城寺法輪院建立…蟄居20年(密教) 1121年 法印大和尚位 1130年 権僧正位 1131年 証金剛院(朱雀大路南延長線上の離宮鳥羽殿御堂)別当 梵釈寺別当 1132年 僧正位 1134年 大僧正位 法成寺等別当兼帯 1135年 園城寺長吏 1138年 天台座主(在職3日) 証金剛院護持僧 1140年 示寂…「遺産の処分は腕力で決めるべし」 院政を確立した白河法皇[1053-1129年]の拠点は六勝寺@現岡崎公園一帯 (法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)…鳥羽僧正の管掌であろう。 ただ、現存する「今昔物語集」は草稿に見せかけた完成版と見るべきだと思う。「宇治大納言物語」が消えたことを目にしているのだから、余計なことを書かないことにしただけ。 草稿ならバラバラになっておかしくないのに、全巻の写本が存在している上に、作者無名の草稿を大切に保存することは考えにくいからである。サロンに関係した人々が、夫々、仲間を集めて急いで写本を作成し、持ち帰って大切に保管したように見えるからだ。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |