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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.10] ■■■
[附 21] 法華経の出自
小生、法華経を読んだことは無いが、皆無ということでもない。
昔のことでほとんど記憶がないが、「世界の名著」に収載されていたので、軽い気分で読もうとしたことがあるからだ。
それで懲りた。

禅宗系とは違って、考え始めることができない。浅学の身には歯が立たないのである。
とりあえず解説を読むから、比喩満載なのはわかるものの、その字面を追うことしかできない。
ラッキョウのようなもので、剥いても剥いても、教義がなんだかさっぱりわからず。とんでもなく難解な経典である。
これが"空"と言うことか、と自嘲的に言う位が関の山。

つまり、これは哲学書や思想書ではなく、信仰の書ということ。考えて見れば当たり前の話だった。
救済されたいなら、法華経を信仰しなさいということで貫かれている書。
そうは書かれてはいないが、信仰告白ありきの経典宗教に近い。

・・・ 「今昔物語集」を眺めていくうちに、そんなこともあったなと、ふと思い出したのである。

う〜む。

「今昔物語集」は仏教話満載だが、どう見ても宗教書ではない。
小生は、社会的な観点で世界を俯瞰的に観察しようと、サロン読者向けに作った書とみているが、そう見なして読むと、法華経の位置がなんとなく見えてくるから不思議である。

🈑🈤🈕の分類に則って考えるだけのこと。
  →「経典宗教の違い」
そして、今まで気付いて来たことを総合化して、自然なシナリオを組み立てるだけにすぎない。

素人からすれば、流れは単純。
最初の経典はジャータカ的なもの。口誦用である上、ベーダ経典同様にお話であり、論議は活発化し花盛りになろう。しかしそれは、都会の僧のコミュニティ内での動きで、在家にとっては無縁である。
その対応で生まれたのが、大乗経典般若の一群。
おそらく、各地の拠点で発展したものを寄せ集めたのだろう。その流れと一線を画したのが、徹頭徹尾上流在家主義と見れないこともない、維摩経ではないか。

それは、ある意味、仏教教団が避けて通れない矛盾を意味しよう。
僧は自らを俗世と切り離すことになるが、生きるためには繋がる必要がある一方で、供養する在家からすれば隔絶された環境でひたすら修行する聖人であればあるほど繋がりたいのだから。しかも、俗世間と一線を画してはたして救うことができるものかという疑問も湧くだろうし。

こんなことを考えると、般若経段階は、見かけの在家主義というか、基本思想を民に教宣する活動ありき的なもの。
中華帝国のような、家庭の精神生活にまで食い込んでいる血族第一主義と、神や冥界まで官僚的秩序で動いている社会では、上層の民には適合するかも知れないが、天竺の民のように、閉鎖的な職業コミュニティで生きるしかなく、信仰は、高度なスキルを持つ口誦者に頼る風土だと、どうしても表面的受け入れに留まるのでは。
在家の信仰対象は散漫化してしまうだろう。

しかも、風習等、培ってきた独自文化を潰すことを是とする、異民族侵略がそこらじゅうで発生している時代とくる。
インターナショナルな宗教としては、この対応が求められた筈である。神への帰依による魂の救済という流れが発生していたことに気付かない筈がない。
この欠けている部分を急遽補強したのが法華経のように映る。

ただ、これはパッチを当てるような訳にはいかず、大転換を伴う。とても、既存組織が変身できるとは思えない。分派活動以外に手はなかろう。
しかし、弾圧された話はないし、無視されたのではなかろうか。そうだとすれば、経典は分派内で留まり、流布されなかったことを意味していそう。隠した訳ではなく、通常経典のようには扱われなかったということかも。
そうなると、経典の特徴から見て、魅力的読誦の大規模法会を仏舎利塔で行う勢力の独自"経典"という図が当てはまる。
法華経とは、イベントに用いるテキストということ。

天竺外では、そのパフォーマンスの素晴らしさで、是非にもということで、受け入れられていったのでは。仏舎利=法華経経典ということもあろう。

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