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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.5.20] ■■■
[附 16] 全体構造理解の難しさ
各巻がどのような譚から構成されているか眺めていると、どうしても飽きてくる。

暫く我慢して続けるつもりだが、それ自体にたいした意味があるとは思っていない。
それは、素人の土方仕事のようなものではないか。小生独自の比喩で恐縮だが。

どうしても、大学生時代のことを思い出してしまう。体力自慢の同級生が夜間土方仕事のアルバイトをして体を壊して入院してしまった、とポツリと語ってくれたから。・・・
現場は新入りに大変に親切だったそうだが、実は、居ない方が皆の仕事が捗ったのではと述懐したのである。
そのかわり、自分にとっては、貴重な体験だったと、しみじみと。"頭を働かす"とはどういうことか、初めてわかったというのだ。友人でもないのに、突然、小生にそんな話をするから、いつまでも覚えているのである。
その後、ピカ一の大学に乞われて教授になったそうだが、そのせいかはわからない。

「酉陽雑俎」は序文があるし、邦訳版の注は質がとてつもなく高いので、どうにか全体像のイメージ形成ができるが、「今昔物語集」はお手上げ。

各巻の構成を見ていくと、そのうち突然糸口を見つけることができるかも、という淡い期待で文章を眺める日々である。

と言うことで、ここまで【天竺部】を見て来て、強く印象づけられた点だけ書いておこう。

どう見ても、独自な「佛傳」を書いてみたかったようである。
「酉陽雑俎」の著者的な性格なら、多分、サロン仲間の尊敬する僧に、何故に、本朝では仏伝が書かれないだけでなく、そんな漢籍も入って来ないのか尋ねたに違いない。
その答は、多分、目から鱗だったと見る。それを切欠にして生まれたのが【天竺部】だろう。
残念ながら、それがどのような話だったか想像するには、力不足。

次に思ったのは、予想以上にジャータカに力をいれている点。
南伝の非大乗仏教に惹かれているとは思えないから、そこに人々の生活実感が溢れていると感じたのではなかろうか。
サロンでは盛り上がりそうな話が多いということでもある。

そういうことでは、本朝仏法でも、最後の巻は同様な部類と言えよう。

およそ仏教説話とは呼べそうにない毛色が違う巻のなかでも、やはり最終巻は出色。

ところが、震旦部の最終巻は、こういっては何だが、今一歩に映る。
そうなると、この巻は、読み方に注意が必要ということになろう。
チラリと眺めると、「酉陽雑俎」的なヒネリが効かされている譚が多そう。ここは、最初に読むべきではなく、じっくり温めてから、のんびり味わう箇所なのだろう。
現代人には、かなり丁寧な註を必要としそう。

そんな風な受け取り方が当たっているとしたら、「今昔物語集」のエッセンスを感じ取りたいなら、この4巻と言うことになりそう。
  巻__ 天竺 付前(釈迦本生譚)
  巻__ 震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])
  巻二十_ 本朝 付仏法(天狗類 冥界往還 悪報:転生現報 他)
  巻三十一 本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)

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