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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.20] ■■■
[附 13] 仏像の起源
小生の時代のテキストでは、仏像はガンダーラ生まれだったと記憶する。ギリシアのヘレニズムの影響で、それまで作られなかった釈尊の姿を描くようになったと記載されていたように思う。
現在はどのように変わったか、調べてはいないが、いくつか説があり確定していないようだ。

しかし、素人からすれば、実は解決済み。・・・
覚えさせられた内容は分析的には正しいが、根本的な概念が間違っているというのが結論である。「酉陽雑俎」と「今昔物語集」に触れ、鍛えられると、必然的にそうなる。

時期的には、第四次結集の前で、カニシカ/迦膩色伽1世[在位:144-171年]の王朝期とみる。表裏が王と釈迦の"人物像"になっている金貨が存在しているからだ。

平山郁夫美術館に実物があるところを見ると、画伯は仏像の端緒を理解していた可能性が高い。薬師寺玄奘三蔵院伽藍の大唐西域壁画を鑑賞すればなおさら。その鍵は、途轍もなく高価な青の岩絵具(ラピスラズリ)をこれでも足りぬかと言うほどふんだんに使っている点。

つまり、仏像を生み出したのは、ペシャーワル マトゥラー ガンダーラの三角地帯ということ。この論理、おわかりだろうか。

仏像なかりせば、この王朝の繁栄はなかったと言っても過言ではないと見る訳だ。
繁栄を支えたのは、ペルシア系のゾロアスター教の信仰者。その人達を一気に仏教に転換させたことで、仏教交易圏が巨大化したということ。この人達は、古代から、青の文化に染まっており、具体的な姿の偶像を崇拝してきた。偶像なき信仰など有り得ないから、釈迦牟尼仏のお姿なき仏伝図など教化に使えるとは思えない。
この富裕層を取り込まない限り、社会安定など有り得ないから、一気に造仏機運が高まるのは自然の流れ。その交流接点はおそらくマトゥラーだが、その地はあくまでも離宮の地。政治的動きを規定していたのは首府のペシャワール。だが、この両地には、仏像を造る工人が不足しており、そこで目がつけられたのが、ヘレニズムの造像文化の置き土産の地ガンダーラということ。

このような構造であることは、釈迦牟尼像を見れば一目瞭然である。釈尊は剃髪した筈だが、仏像になれば髪が生えており、しかもそれは経典に記載されるが、青色である。(本朝の生命観の"あお"とは違い、おそらく往生観の"あお"である。)
瑠璃色の頭髪であることで、尊崇対象として心が落ち着く人々が一気に仏教界に流れ込んだことを意味している。
瑠璃光浄土観をもともと持っていた人々であり、その観念は薬師仏として結晶化していったのだろう。この辺りの人々は、ソグドまで含め、瑠璃色浄土の窟に強いこだわりがあり、その中心には"智"の象徴である髪が生えている主尊像が不可欠だったと見てよいと思う。

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