→INDEX

■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.30] ■■■
[附 11] 涙々だらけ
😭涙々のシーンを数える気はしないが、100を軽く越えているのは間違いない。いくら1,000譚もあるからといって、多すぎでは、というのが小生の偽らざる感想である。
原典に合わせているからそうなるのだろうが、天竺や震旦の文化を知ってのことだから、編纂者はその辺りをかなり意識していると見てもよいのでは。
もちろん、泣くからといっても、感謝、満足、懺悔、残念、哀悼、等々と、感極まれりは一様ではないものの。

おそらく、全体として、なにかといえば泣くという文化を感じさせるように仕上げている。

特に、社会的に、これは感動すべき状況と認識して流す涙がありそうとは、すぐに感じる点ではなかろうか。

もちろん、当人は、自分の本心から感動した極く自然な行為と確信しているが、皆々涙々的な状況だらけの社会ということは、感動がルーチン化してしまい、しきたり的行為に近くなっているということ。
それは、インターナショナルなセンスを欠くと全くわからない。
現代でも、隣国の葬儀に於ける、雇われ哭女に率いられて、叫ぶような集団大泣きが行われることに違和感を覚える人が多いようだが、文化は全く違うがそれと同じようなもの。

本朝から離れ、冷静に自分達の社会を眺めてみることをお勧めしたいというのが、「今昔物語集」編纂者の考えと見ての話だが。

つまり、本朝が、性別年齢地位職業と無関係に、その場で、"全員感動"することに大きな価値を与える社会であることに気付かせようということ。
それは、教団の紐帯形成に繋がるが、"感極まる"現象は本来的には個人の精神的営為だから、その感興を集団に埋没させがちな体質があることは、心しておいた方がよいと呼びかけているようなもの。

 (C) 2020 RandDManagement.com    →HOME