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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.20] ■■■
[附 10] 和漢混淆文
白楽天は平易な文での詩作に徹した。

「酉陽雑俎」の著者 段成式にしても、当代一の美文家とされる文体論者だが、通常用いていた文体を避け、装飾の類を一切取り去ってあっさりした特別な文体で記載。

両者共に、インターナショナルな、つまり言語・人種・身分の壁を突破した文化的交流を愛する在家仏教徒ならではの姿勢と言えよう。もちろん、信仰生活はあくまでも精神的なもので、実生活では、仕事を精力的にこなす有能な官僚である。

言語上で、上流社会の優越感を組み入れたような作品造りは、生活上不可欠ではあるものの、精神的自由を愉しむためにはそこから脱する必要があると考えていたと見てよいだろう。
出自の背景は違うものの、震旦におけるエリートであり、社会には、そのエリートに対する怨嗟が存在することも知っていたからでもあろう。その怨嗟を和らげることの重要性をよく知っていたということ。

そんな当たり前のことを小生が実感したのは、英語の勉強をした時だったように思う。
当時のサウジ石油相の話す英語は語彙的には一般的だが美しい言葉だった。ゆっくりわかるように話してくれているように映ったが、その文章を手本にして話して見ると、実は、スピード的にはかなり速いので驚かされた。流石エリートと感じた、それと対照的なのが、イギリスの政治家の演説だった。結構、早口に聞こえるが、実はえらくゆっくり。ところが、その同じ人が、クローズな場では、サウジ石油相に負けずおとらずの話し方。美しく洗練された用語だらけで、しかもウィットに富んだ内容。なかでもビックリは発音自体が全く違う点。この技術には恐れ入った。

「今昔物語集」編纂者もそこらをよくご存知だったのではなかろうか。

当時の公的文語はあくまでも漢文の社会。
しかし、会話は一切漢語を使わなかったようだ。(朝鮮半島のように、漢語ママ会話にする動きもあった筈だが、漢字を表音文字として使ったりして、早くにその芽を摘んだようだ。)そのため、レ点がつく漢文が用いられた訳だが、それでも読むのには骨が折れたに違いない。
それが全く気にならないのはエリートだけだろう。当然ながら、それができない人々から怨嗟の眼で見つめられることになる。これでは、まともな精神的交流などできる訳がない。

だからこそ、「今昔物語集」を思いきって和漢混淆文にしたのだと思う。
漢文レ点の訓読文と純和文の仮名日記物語を習合させようと考えたということ。

この文体なら、よく使う漢語さえ知っていれば、エリートでなくても、ある程度教育を受けていれば、それなりに読めるからだ。

要するに、知識人層が使うべき文語は、公式語(漢文)でなく、漢文訓読調の当時の準口語(漢字片仮名交じり文)にすべしとの、強い意志があったと見てよいだろう。
換言すれば、できる限り、サロンでの談論調の文章を書きたかったということ。読者にその知的雰囲気を感じてもらいながら、頭を使って欲しいと呼びかけたかったのだと思う。そのためには、文語に多用される"修辞"を出来る限り排除し、擬音・擬声語の使用も躊躇せずとなる。

ただ、和漢混淆文自体は、「今昔物語集」が普及の切欠ではなかろう。平家物語のような軍記物がその役割を担った筈だ。その先鞭をつけたとは言えそうだが。

目的が異なるとはいえ、物語でも、この2者はスタンスが違う点にも注意を払う必要があろう。
「今昔物語集」は、和文の特徴とも言える、韻律法的表現は避けているからだ。
所収詩歌は別として、韻文の音的美しさを訴求することは極力避けている。軍記モノのように、読者が情緒で流されてしまうのをヨシとはしないのだ。

と言っても、散文で論理の爽やかさを訴求している訳ではない。主張を叩き込もうとの野心などなく、口唱弁舌の書ではないことを示したかったとも言えよう。
つまり、淡々訥々と記載することを旨として編纂したのだ。

物語ではあるものの、情緒、気分、人間心理の描写を主体とはしないということでもある。
つまり、本人しかわからないことを、勝手に想像して書いているだけですゾ、との姿勢がわかるように記述したということ。できる限り、客観性を保つための書き方を工夫しているとも言えよう。

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