→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.1] ■■■ [附 1] 間違った情報 写本転記ミスもあるかも知れないが、ほとんどが作成時に発生したものと見てよさそうだから、もう少し問題にしてもよさそうに思う。 しかし、そんなことを表だって話題にすれば、この書籍での記載を信用できぬと言い出す人もでかねないから、簡単なことではない。 と言っても、そこらは避けて通れまい。 特に、小生は、「今昔物語集」編纂者は、「酉陽雑俎」の著者同様に、広い知識と深い洞察力を持つ、当代随一の知識人と見ているので、ここらの問題をどう考えるべきか整理しておくべきと考えており、メモを作成しておくことにした。 何と言っても重要なのは、無知とか、勘違いからこれほどのミスをしでかすとは考えにくいものが多いという点。 翻訳モノの巧拙にバラツキを感じさせるから、翻訳や要約担当のサポーター達の初歩的なミスを見逃した可能性はありそうだとはいえ。(1,000譚もあり、元譚の数は2〜3割増しな筈だし、未収載譚を加えれば2〜3倍になっておかしくない。準備した原典の数は膨大となり、官製プロジェクトではないから、ミスなしに整理するのは容易なことではなかろう。) そんな風に感じさせる点が、「酉陽雑俎」との大きな違い。 つまり、完璧な編纂体制を整えるのは難しそうと踏んで始めた可能性があるということ。 ・・・ミスは避けがたいが、そういうことなら、それを逆手に取って意図的な間違いを加えるのも悪くないと考えたのでは。 エスプリを効かした書を編纂したいと思うなら、ありそうな方針かも。 小生は凡人そのものだが、それでも、そんな考えはありうるからだ。 「出鱈目」シリースとして植物について、そんな感覚で書いてみたことがある。簡単に調べられる情報に依拠しているので、ほとんどの場合矛盾した話に遭遇。素人だから、どちらが正当かの判断は極めて難しい。それこそ、エイヤーで感性のおもむくまま決めるしかない。もちろん、書き手としては一番正しいと信じている訳ではあるが。 正直言えば、どう考えてもそうは思えない説だらけの場合、どう書こうか悩むということ。 それに、「間違い」に主張が含まれていることもありえよう。 小生の経験で言うならこんな風。・・・ 「○○は、ついにプロプライエタリなOSを止めた。」と書いたことがある。すると、真面目な読者の方から間違いとのご指摘を頂戴した。駄文をお読み頂いた訳で、その上にご注意頂くほど有り難いことはない。正に"ご指摘通り"だし。早速、"馬鹿な間違いをしでかしました。"と訂正した。 実は、当方は、"ついに独自カーネルを止めた"との意味で書いたが、そんなことは文章をいくら読んでもわからない。そこからなにか感じる人がいるかもと思っただけ。全OSのカーネル統一に進むなら、それが何を意味し、その先、どのような変化を生み出すか考えることも悪くないのでは、といったところ。もちろん、そんな見方を示唆する言葉はひとつも書いていないというか、書くつもりもなかった。 両者ともに、余り役に立たぬ例だが、要するに、「今昔物語集」を読むには骨が折れるということ。 例えば、漫然と、巻一#1譚を、『やさしく学ぶ仏教史』の冒頭と思って読んでしまったのでは、価値はない。その手の本を読んだ方がまし。 自分が釈尊の誕生を描こうとしたら、どのような情報を入れ込み、何を切り捨てるか考える必要があるということ。 年代記載がどうもおかしいとしたら、そこは何らかの仕掛けがあるかも知れないのだ。天皇代で時代を表している事が多いが、そのような記述を間違えることなど考えられないからだ。 一番わかりやすいのは以下の譚か。 【本朝仏法部】巻十四本朝 付仏法(法華経の霊験譚 ●[巻十四#_1]為救無空律師枇杷大臣写法花語 そのうち、この譚はとりあげようと思っているが、この無空律師とは第2代金剛峰寺座主であり、寺名の紹介不要な高名な真言宗の僧と言ってよいだろう。 にもかかわらず、「今昔物語集」では、わざわざ冒頭に"比叡山の"僧と書いてある。 これをミスと考えるなら、「今昔物語集」全体の質は極めて低く、記載情報は信用できないことになる。そんな書を多大な労力を費やして作るとは思えまい。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |