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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.2] ■■■
[2] 本邦三仏聖
「今昔物語集」は3国モノであるが、本朝譚の先頭にあがっているということで本邦「三仏聖」。
 【本朝仏法部】巻十一 本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#_1] 聖徳太子於此朝始弘仏法語
  [巻十一#_2] 行基菩薩学仏法導人語
  [巻十一#_3] 優婆塞誦持呪駈鬼神語

もちろん、本朝譚の冒頭巻は、日本で仏教が広まった様子を描くためのもの。
妖怪譚の奇書と名付けられてしまった、唐代の書「酉陽雑俎」では王朝史譚から始まるが、正史や世の中で常識とされる見方を改めて並べるつもりなど更々ない訳で、自分の頭で少し考えて見ることをお勧めしたいのですがネ、という部分と考えるべきだろう。
インテリの著作で、サロンの人達の話題から出発していそうな「今昔物語集」も同じことが言えるのではなかろうか。

現代義務教育を受けていると、聖徳太子、行基、役行者/小角を「三仏聖」と書くと、おそらくビックリされるのではなかろうか。
何れも、誰でが知っている名前だが、聖徳太子を引き継ぐ聖人として並べられてしまうと、違和感を覚えるのが普通だからだ。公的文書にそのような位置付けがなされるとはとうてい思えない訳で、しかし、これが実像ですゾ、ご注意あれという指摘に近いと言ってよいのでは。社会を冷静に眺める力と、社会的にパージされるリスクをあえて冒す胆力を欠くとできぬこと。

もちろん、聖徳太子は、あくまでも、宮廷を核とする中央での宗教=政治のリーダー。しかし、一般社会に広く直接影響を及ぼした行為がなされたとは思えまい。そちらの役割を一手に担ったのは行基だったことを、「今昔物語」の作者は指摘しているのである。
そういう観点からすれば、修験道の立役者ともいえる役行者も同じように重要な役割を担ったのは間違いないと語っている訳だ。直接的にそうは書かずに。
ソリャそうである。役行者は、どう見ても亜流扱いされているからだ。しかし、修験道として認知される以前から山岳信仰は存在していたのであり、そこに仏教の息吹を持ち込んだのなら確かに大きな功績と言えよう。
天竺での布教状況を踏まえれば、これは自然な見方でもある。

と言っても、聖徳太子は日本における仏陀扱い。3聖の一人という地位ではなく、神格化された別格の存在である。
従って、現代感覚での仏教伝来イメージとは全く異なる話になっている。
 ○懐妊:用明天皇・穴穂部間人皇女の御子(救世観音菩薩化身)
 ○誕生:敏達天皇期正月一日
(赤黄光発生)
  二月十五日
(釈尊入滅日)に東に向かい南無仏」と宣礼
 ○6歳:百濟より仏僧・経論渡来

  前生は修行者
@漢の南岳なので見経
  六斎日
(梵天・帝釈天・閻浮提の政事)の禁殺生を奏上
 ○8歳:新羅より仏像
(釈迦)渡来⇒@興福寺東金堂・・・消失
  仏僧、太子に礼「敬礼救世観音 伝灯"東方粟散王"」

 ○〃:百濟より仏石像
(彌勒)渡来⇒@元興寺東・・・消失
  蘇我ノ馬子ノ宿祢 家の東に寺を造営し据像

  塔造営に当たり、太子は仏舎利礼奉

 :
 :物部との闘い〜摂政役等々の話
 :
 ○49歳:入滅
@斑鳩宮 「我レ今夜世ヲ去ナムトス」
        太子御物 自筆法華経⇒@法隆寺・・・現存
そして、3ツの名前ありと。
 厩戸ノ王子 八耳ノ王子 聖徳太子
ともあれ、仏法伝来は太子の御世ということ。

聖徳太子[574-622年]の次に掲載されるのが行基[668-749年]。両者の間にはなんらの関係も示唆されていない。すでに、大寺院はあったものの朝廷直属のエリート集団的性格が強く、組織的布教活動は進んでいなかったのが、行基の登場で雰囲気一変というところか。
 ○誕生:物に包まれて。@和泉の大鳥(堺)
 ○幼少:仏法讃嘆。周囲の子供から大人まで集まる。
 ○出家:薬師寺。
 ○修行:各地。
   魚食譚
(供された鱠を食すも、後、吐き出しすと生き返り放生)
 ○大僧正:天皇命。
   元興寺老僧が若年学生僧として侮蔑するも、後、師事。

 :
 ○事績:畿内49カ所に寺院建立 道路整備 架橋

全国で大土木工事を指導し、東大寺大仏造営に功ありと覚えさせられた気がするがに、実態としては畿内中心かも知れぬ。尚、この譚では東大寺は触れられていない。
と言う事で、文殊菩薩の生まれ変わりとされた。

役小角[634-701年]は行基の一世代前の人と見られているが、ほぼ同時代と見ることもできよう。
出自は大和葛上茅原(御所)の加茂系氏族。葛木山の窟に40年間居住し山岳修行した「孔雀明王呪」の優婆塞。雲に乗る仙人でもある。
おそらく、山岳宗教の仏教帰依化が重要と見たのは、山を根城にする反仏教勢力「鬼」への対処なしには仏教は定着できなかったとの見解があるからだろう。
金峰山(蔵王菩薩の地に)や葛木山(一言主の聖地)には古くから土着的宗教勢力がいたから、仏教への取り込みは一筋縄でできる訳もなく、役小角の存在は大きかったと思われる。
結局、天皇の命で伊豆への遠島流罪になる訳だが。どういう訳か文末が欠損しているし、この時代の天皇名も恣意的に臥せられているところを見ると、語れないことが多いのだと思われる。

この三仏聖は、ある意味、日本仏教の本質を示すものでもある。聖徳太子は皇族であり、釈尊のように出家した訳ではないし、受戒した訳でもない。それでは、行基と役行者はどうなのか。こちらも、正式な受戒話は無い。行基は間違いなく私度僧であり、在俗の在家との境界は極めて曖昧な地位と見てよかろう。当時の正式な出家僧侶からなる僧伽に属していなかったのだ。役行者に至っては在家仏教信者の優婆塞。
「今昔物語集」の編纂者は、天竺と本邦の違いをここではっきりと示したと言えなくもない。日本では在家と出家の境界に大した意味は無いということ。天竺であれば、僧侶に求められるのは在家では実現できない清浄な生活がイの一番であり、だからこそ受戒が重要なのである。本邦で重要なのはそんなことではなく、説法と呪術の心地よさと社会生活への実利なのである。

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