→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.12] ■■■ [12] 琵琶の名手 源博雅 [蝉丸] 対になっている前段の譚を取り上げよう。・・・ 【本朝世俗部】巻二十四 本朝 付世俗(芸能譚 術譚) [巻二十四#23]源博雅朝臣行会坂盲許語 [巻二十四#24]玄象琵琶為鬼被取語 琵琶は美しいものが、正倉院所蔵の御物として現存している。御物として、それぞれ大切にされてきたのだろう。 伝来は7世紀末頃と目されているが、本来的には独奏楽器ではなく、雅楽の管絃合奏用だったと思われる。王朝音楽で、儀式で演奏される訳で、舞踊が付随したりするが、雅な娯楽と考えるべきもの。 一方、教文あるいは物語りの謡の伴奏用にも使わた訳だが、こちらは流れが全く異なり、声楽だと思われる。根底には宗教的な意義がありそう。 独奏は後者の発展形か。 そのなかでは、なんといっても琵琶法師が有名である。これは、街中で弾く盲目僧のこと。平安中期に天台から勃興したと言われている。 "祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり"で知られる「平家物語」は鎌倉期のことなので院政期の作品と思われる「今昔物語集」よりずっと後世のこと。しかし、その萌芽となったと思わせる話が掲載されている。 話は琵琶だが、ポイントは宇多天皇[867-931年]。純直系の血筋ではないと考えていたのか、父の光孝天皇は子女を臣籍に降下させたと伝わる。子女の数が多すぎるということもあったろうが。 ちなみに、源博雅は醍醐天皇の第一皇子 兵部卿 克明親王の長男とされている。 58代光孝天皇[830-887年]─59代宇多天皇[887-897年]─60代醍醐天皇[897-930年]─ ┬61代朱雀天皇[930-946年] └62代村上天皇[946-967年] さてお話の方だが、同じく、村上天皇の御世のこと。 逢坂の関に盲人 蟬丸が庵居していた。琵琶に優れる式部卿の宮の下で雑色をしていたので、熟達したとされ、妙手と言われていた。 ひどくみすぼらしいので、源博雅は都に住まないかと、遣いをやると返答は歌だった。 世の中は とてもかくても 過ごしてむ 宮も藁屋も はてしなければ これを見て嘆息。 秘曲「(石川)流泉・啄木」も途絶えてしまうだろうから今のうちに聴きたいものということで、自らの足で訪問。しかし、いくら通い詰めても演奏は無く、そのうち3年が経ってしまった。 八月十五日の朧月夜、今度こそ興がのる筈と期待が膨らんでいたところ、歌が。 逢坂の 関の嵐の 激しきに しひてぞ居たる 世を過すとて そして、演奏。 物の哀れを感じさせ、しみじみとしたところで、蟬丸は突然管弦に造詣の深い人と語り合いたいものヨ、と独白。 そこで、源博雅は始めて自己紹介し本音を漏らす。 蟬丸は嬉しくなり、ついに、式部卿が奏でた秘曲を奏でたのである。 源博雅は、それをすべて頭に入れて都に戻った。 結語には、道を究めるとはこういうことだが、そんな人は稀で、まことになげかわしいと記載されている。そして、蟬丸は盲琵琶の祖とされている、と。 すでに、この頃に琵琶法師は上流階級にその存在を認められていたのであろう。そこが、この譚の焦点ではないか。 源博雅はいわば付け足しで、玄象譚での、天皇との間の阿吽の呼吸での御物持ち出しが成りたつ背景説明になっている。どちらも、伝承話ではあるものの、上手に編集してあり、なかでも和歌の存在が光る。言うまでもないが、それは貴人ではなく下人の作だからだ。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |