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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.22] ■■■
[22] 落雷
災厄身代わり仏像タイプの霊験譚は定番モチーフ。雷避け信仰は古代から現代まで続くから、ぜひにも入れておきたかったのだろう。
 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  [巻六#14]震旦幽州都督張亮値依仏助存命語

そう思うのは、巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)のほとんどの譚の原典が、非濁:「三寶感應要略」なのに、これだけが「冥報記」だから。

登場する張亮[n.a.-646年]とは、唐太宗の頃の功臣二十四名に列記される人物。その割には事績記載は少ないようだが。謀反の罪でで斬殺されており、仏教から道教信仰に変わったようでもある。貧農出身であるし、土着信仰に戻ったということだろう。
「冥報記」は実見とか、実取材の記録の体裁をとっている点が特徴。
この譚もその体裁で筋は単純。・・・
幽州都督をしている時、自分の身体と同じ大きさの仏像を供養していた。その最中、寺に落雷。柱が欠損するほどで、侍婢は死亡。その欠片は張亮の額を直撃。怪我はなかったが、仏像は同じ箇所に大きな傷。身代わりになってくれたのである。
そのことを、高cに語ったという。
「冥報拾遺」で補足すれば、この寺は智泉寺。

  唐臨:「冥報記」中17 張亮
  [巻六#14]震旦幽州都督張亮値雷依仏助存命語
  今昔、
張亮為幽州都督府長吏,
   震旦の□□の代に、幽州の都督に□の張亮と云ふ人有けり。府の長吏と有り。
崇信佛。
   心に仏法を貴び信ず。
嘗入寺,見佛像高與亮身等者,亮因別供養之。
   其の人、昔、寺に入て、仏の長を計て、我が身と等く在ますを見て、此れを供養し奉りけり。
後在堂坐,兩婢立侍;
   寺に詣でて、仏の御前に居たる間に、二人の従者有り。
忽聞雷電,亮性畏雷,因心念佛像。
   皆庭に立てり。其の時に、忽ちに雷電有り。
   張亮、雷の音を聞て、恐るる心有て、此の我が身と等く在ます仏を、心を至して念じ奉る。

俄而霹靂,震其堂柱,侍婢一人走出,及階而死;
   而る間、雷電霹靂して、寺の柱を震かす。此の従者の一人、走り出でて、階に至て即ち死ぬ。
有柱迸中亮額,而不甚痛,視之,纔有赤痕,而柱木半裂墮地,如人折者。
   此の雷の震かす柱、壊れて迸て、張亮が額に当る。
   張亮、「我が額、破れぬ」と思ふに、更に痛き事無し。
   即ち、人を呼て、此れを見しむるに、其の木の迸て当れる所に、赤き痕有り。
   而も、痛む事無し。
   柱を見るに、其の木、半ば裂けて、地に落ちたる事、人の態と𨨞を以て裂き砕けるが如し。

既而亮詣寺,像額後有大痕如物撃者,正與亮痕處相當,
   其の時に、張亮、仏の御許に詣でて、仏を見奉るに、仏の額に大なる痕有り。
   此れ、正しく張亮が痕の所に当れり。露許違ふ事無し。

亮及衆皆驚嗟歎息。
   張亮、此れを見て、「仏の我が急難を救はむが為に、我れに代り給へる也けり」と思ふに、
   哀れに悲き事、云はむ方無し。

其の寺の諸の僧等も見奉て、悲び貴べる事限無し。
(亮自為高c説云爾,幽州人亦知。)
張亮、家に還て、諸の人に語て、弥よ仏を信じ奉りけり。
幽州の人も皆、此の事を見聞く者は貴がり奉て、
皆其の寺に参て、仏の御痕を見て、礼拝し恭敬し奉りけり

  となむ、語り伝へたるとや。
  《以下「冥報拾遺」》
張亮為幽州都督,於智泉寺禮拜,見一大 像,相好圓滿,遂別供養。亮遇霹靂,其堂柱迸木,撃亮 額角而不甚傷。及就事禮像,額見有破處,事在冥報 記。
又貞觀中,其像忽然繞頸有痕跡,大如線焉,時人 咸以為不祥。未幾,亮果以罪被誅,其痕于今見在。


[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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