→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.25] ■■■ [25] 阿育王 "Aśokāvadāna"[Narrative of Aśoka]@「ディヴヤ・アヴァダーナDivyavadāna」#29 安法欽[訳]:「阿育王傳」@3世紀後半 求那跋陀羅[訳]:「無憂王經」…「雜阿含經」"雑阿含雑経"所収 僧伽婆羅[訳]:「阿育王經」@512年 「大阿育王經」…失滅 必ず世界史で習うから、仏教守護者として誰でも名前は知るが、イメージの方は曖昧である。南端のほんの一部を除けば、ほとんど亜大陸全体を征服したのだから、戦争一途の人だった筈だし、王位を堅固なものにするために親族の抹消を図ったに違いないのだが、その辺りはほとんど触れられないからである。 ともあれ、亜大陸統一を初めて実現したのだから、天竺史の第1ページを飾るべき王だ。突然に仏教に帰依する前は暴虐的独裁者だった訳で、仏教からすると、そこらをどのように評価すべきかは難しいものがあろう。 「今昔物語集」では84.000の仏舎利塔を立てたことを取り上げている。 【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動) [巻四#_3]阿育王殺后立八万四千塔語 八塔に分骨された仏舎利塔から、舎利を取り出して細かく分配する訳だ。どの伝記でもナーガの抵抗で1塔は手をつけられなかったそうで、都合7塔ということになる。 一般には、84,000という数字は、誇張とか無量大数的表現と見なされているが、それが妥当と見なすだけの状況証拠は無い。天台宗阿育王山石塔寺@東近江の山上には高さ7.5mの石造三重塔"伝 阿育王塔"があり(日本最古の石塔と見る人も。百済支配層難民の仏教信仰跡らしいが。)その周囲には、何年もの集積とはいえ、数万基にのぼる石仏・石塔があるからだ。の気になれば、数万の石塔は用意できそうだし、あとは一ヶ所の仏舎利を12,000に分けて納めればよいのだから、実話に近い可能性も捨てきれまい。 議論するような話ではないが、この半端な数字が何に由来しているのかが気になる。 「今昔物語集」では冒頭からこの数字が上がってくるからだ。・・・ 今昔、 天竺に、仏、涅槃に入給て一百年の後、鉄輪聖王出給へり。 阿育王と申す。 其の王、八万四千の后を具せり。 わざわざ、"一百年"とかなり断定的に書いてあるのはどうしてなのだろうか。どの出典でも、この数字以外は見当たらないようである。アショ-カ王時代の仏教教団が、諸尊が、入滅百後に、軍事力ではなく法統治の転綸王が登場すると予言をしていたと広宣したと解釈するのが自然だが、実際にそのような予言があったとすることも。ただ、84,000という数字を予言したという話と一緒に語られるので、遺骨を祀る仏塔を作れと言うとは思えずいかにも後世の作り話調である。 それにしても、推定年代とかなりの齟齬がある。アショーカ王誕生は紀元前268年と推定されており、歴史上の実在人物としての釈迦牟尼の入滅が紀元前483年とするとだが。 マ、そのような些細な点を忘れてしまうような筋である。 84,000とは、王が処刑した后の数だというのだから凄い話だ。 后の数が桁違いに多いのは、跡継ぎがさっぱり生まれずということの象徴でもあり、男系子孫を第一義におく社会通念が極めて強いことを物語っているようなもの。そして、ついに王子が誕生するのだが、産みの母に権力を奪われるのを畏れた第一后は御子を殺して、猪とすり替えてしまうのである。どこにでもある王朝内の血みどろの権力闘争だ。 それが露呈してしまい、血の殺戮を招く訳だ。 現代感覚では倫理的に受け付けない訳だが、独裁王朝とはそんなものであり、王が許せぬと思えば処刑は当然の話である。もともと、王の地位に昇れたのはライバル親族を抹殺してきたからに決まっている訳で。 晩年の王は、師である高僧 優波毱多の勧めで膨大な布施を行ったようである。この譚で、后の数の84,000塔を立てるべしと指導する"近議と云ふ羅漢の比丘"がその人だろう。(「阿育王経」には、釈尊→摩訶迦葉→阿難→末(摩)田地→舍(商)那婆私(修)→優波笈(崛 or 毱)多との法嗣譜が記載されているようで、名前を記載してもよさそうにも思うが。後ろの譚で登場するというのに。) 当然ながら、国庫破綻を避けるべしと意見した人々もいた筈で、その一人ではないかと思われる立太子は軟禁されて病死。当然ながら、その辺りから、国は大きく乱れていく。この辺りを示唆する話は語られていない。 それにしても、"国内に勅して、閻浮提の内に八千四百の塔を一時に立給ひつ"と記載した後の段は唐突である。仏舎利不安置を嘆き、大臣がそれは難陀竜王が奪って竜宮に持って行ったからというのだ。 8分塔のうち、1つだけがナーガ軍勢によって仏舎利を取り出すことができなかったということを語っているのだろうが、何故にそこまで拘るのだろう。 [ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |