→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.7.26] ■■■ [26] 仏伝 そう思うのは、冒頭の一行からして、格調高い文章だから。・・・ 今昔、 釈迦如来、 未だ仏に成給はざりける時は、 釈迦菩薩と申して、 兜率天の内院と云処にぞ住給ける。 もちろん震旦にも仏伝に該当する書籍はあるが、どれからもママ引用していないらしい。小生など、ジャータカの序文が一番分かり易いと思うが、漢訳は無いから触れる機会もなかった筈だ。従って、参考にしたのは以下のような書なのだろう。素人には縁遠い漢籍ばかり。 梁 僧祐:「釈迦譜」 唐 王勃:「釈迦如来成道記」 唐 道宣:「釈迦氏譜」 随 費長房:「歴代三寶記」 この手の本を参考にしているに違いないと思うのは、「今昔物語集」は、一見、断片を並べただけに見えるが、検討してみると全体のストーリーを意識してまとめられていることがわかるから。 そんなストーリーが常識化したのは、室町幕府の頃。釈迦"伝記"のお伽草子が普及したから。「今昔物語集」はパイオニアと見てよかろう。 それぞれの譚に、エピソードのTPOを示唆する文言を入れ込むことで、流れを実感できるようにしてあるということ。 巻1を仏伝の基本的な流れに合わせて見て行こう・・・ (参照) 森章司,本澤綱夫,岩井昌悟:「【資料集3】仏伝諸経典および仏伝関係諸資料のエピソード別出典要覧」中央学術研究所紀要 モノグラフ篇(3) 2000年 【天竺部】巻一天竺(釈迦降誕〜出家) ●[___] ⇒(_)⇒燃灯仏授記⇒前生菩薩行⇒(王家系譜)⇒ ●[巻一#_1]釈迦如来人界宿給語 ⇒《在兜率天⇒白象受胎》⇒ 癸丑の歳の七月八日、摩耶夫人の胎に宿り給ふ。 ●[巻一#_2]釈迦如来人界生給語 ⇒《生誕⇒出生宣言⇒生母逝去》⇒乳母⇒ 春の始、二月の八日、嵐毗尼薗の無憂樹下に行給ふ。 ●[巻一#_3]悉達太子在城受楽語 ⇒学業⇒禅修行⇒《結婚》⇒ ⇒《四門出遊》⇒羅睺羅出生⇒ 浄飯王の御子悉達太子、年十七に成給ぬれば、 ●[巻一#_4]悉達太子出城入山語 ⇒《出家》⇒ 浄飯王の御子悉達太子、年十九に成給ふに、 心の内に深く出家すべき事を思して、 ●[巻一#_5]悉達太子於山苦行語 ⇒《苦行⇒仙人問答⇒苦行放棄》⇒ 「我れ、苦行を修して、既に六年に満ぬ。 未だ道を得ず。・・・ ●[巻一#_6]天魔擬妨菩薩成道語 ⇒《降魔》⇒ ↓ 次譚冒頭の段で記載 ●[巻一#_7]菩薩於樹下成道語 ↑前譚二月七日の夜を以て、此の如き魔を降伏し畢て、 ⇒《成道》⇒解脱三昧⇒入滅勧誘打破⇒商人供養 第三夜に至て、無明を破し、智恵の光を得給て、 永く煩悩を断じて、一切種智を成じ給ふ。 ⇒《梵天勧請》⇒ 菩薩の上中下根を観じ給ふに、二七日を経たり。 ●[巻一#_8]釈迦為五人比丘説法語 ⇒《初転法輪/五比丘》⇒ 釈迦如来、波羅奈国に行給て、 憍陳如等の五人の比丘の住所に至り給ふ。 ●[___] ⇒三迦葉⇒竹林精舎⇒ ●[巻一#_9]舎利弗与外道術競語 ⇒《舎利弗》⇒ 終に外道負けて、舎利弗勝ち給ぬれば、 釈迦の面目・法力の貴く勇猛なる事、 此より弥よ五天竺に風聞しぬ。 --- この#9譚の補足的に#10〜16譚に外道/分派からの攻撃への対応譚が並ぶ。 --- --- #17〜28譚には近親者/出合人の出家譚が並ぶ。 --- ●[___] ⇒目連⇒大迦葉⇒ ●[巻一#18]仏教化難陀令出家給語 ⇒帰郷⇒《難陀》⇒ 難陀と共に閻浮提に返り給て、 難陀の為に一七日の内に法を説て、 阿羅漢果を証しめ給てけり ●[巻一#31]須達長者造祇薗精舎語 ⇒《祇園精舎》⇒ 伽藍を建立して、一百余院の精舎を造る。 祇園精舎と云ふ此れ也。 ●[巻一#17]仏迎羅睺羅令出家給語 ⇒《羅睺羅》⇒ 羅睺羅、既に年九歳に成ぬ。 今は出家せしめて、聖の道を習しめむ」と。 ●[巻一#19]仏夷母憍曇弥出家語 ⇒《憍曇弥》⇒ 仏、諸の比丘と共に、此の国に在ます事三月、 終に国を出て去給ふ時、 憍曇弥、諸の老たる女と共に、 尚を「出家の事を申さむ」とて、仏を追て行く ●[巻一#21]阿那律跋提出家語 [→仙道王] ⇒《阿那律》⇒ 釈種八人、及び優婆離の弟、皆一つ心にして出家せむ ●[巻一#20]仏耶輸陀羅令出家語 (欠文) 耶輸陀羅は南伝では登場しないとも。釈尊出家前の悉達多太子の妃で、羅睺羅の母である。成道の5年後に釈尊養母や釈迦族女性500人と一緒に出家したとされる。 ●[巻一#24]郁伽長者詣仏所出家語 (欠文) 在家だが、出家戒を志向し妻と離別した郁伽長者。敢えて在家として衆生を救おうと決意したのである。釈尊は、その功徳は出家者も及ばないとする。[「郁伽長者所問経」] --- #29譚以降は在家信者譚が並ぶ。 --- ●[巻一#38]舎衛国五百群賊語…巻一最終譚 ⇒《五百御弟子》⇒ 五百人の群賊を各照し給ふ。・・・ 御弟子と成ぬ。 所謂る、霊鷲山の五百の御弟子と云は此れ也。 [ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |