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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.2] ■■■
[33] 指鬘
千人斬りで指を糸で繋げて装身具にするというオドロオドロシイ話がでてくる。もちろん外道というか、現代用語で言えばカルト。
 【天竺部】巻一天竺(釈迦降誕〜出家)
  [巻一#16]鴦掘摩羅切仏指語

筋はこんなところ。・・・

天竺のこと。
鴦掘摩羅
[アングリマーラAngulimālya]は外道の法を信じ、
指鬘に師事していた。
呵嘖した師の指鬘から命じられる。
 「千人の指を切断し、天神に祀れ。
  そして、王位を得、天下を治め、富貴を得よ。」
その言葉で、鴦掘摩羅は活き活きとしてきて、力が漲り
 釼を握り、
 指を集めるための索を持ち、
 走り出たのである。
ところが、そんな外道の始めというのに、
釈迦如来が太子として、密かに父の宮を出たところに遭遇。
太子が退いたので追ったが、
その逃げ足は疾く、疲れただけ。
そこで、大声で太子に尋ねたのである。
 「汝は、
  一切衆生の願いを叶えるため、
  脱王宮を果たし、利生の道に入るとの
  本願を立てたのでは。
  私は、
  千人の指を切断し、天神に祀ることで
  王位を得ようとしているのだ。
  どうして、
  私の願には背いて
  一本の指を惜しむのだ。」と。
太子はそれを聞いて、指を与えることにした。
すると、鴦掘摩羅に慈悲の心が芽生え、
外道としての決心を悔い、道についた。


なんだかよくわからないお話。

突然、呵嘖される理由が不明だし、師の名称を指鬘としているのは指集め教団ということなのか。
とんでもないカルト教団ということになる。

しかも、指を集めて王になるという話に、釈迦如来が共感を覚えたのであろうか。そこらの対応が腑に落ちぬ。
最後に、如来からその指を貰うと、その慈悲の心で仏道に帰依するというのだが、どのような風の吹き回しで心変わりしたのだろうか。奇跡的な心変わりとしか思えないが。

ところが、竺法護[訳]:「佛説鴦崛摩經」(一番早期の翻訳と言われているようだ。)を読めば、こうした経緯はよくわかり、すべてが氷解。人名が若干違うが、漢訳名は、意訳、音訳、折衷訳があり、バラエティ度は高く、間違いなく同一。

この外道は、500もの弟子を擁す大規模集団で、弟子名は鴦掘摩。指鬘は師の名称ではなく当人である。指集めをする大逆賊、つまり千人切の殺人鬼ということで名付けられたと。
ここでの肝は鴦崛摩の偈である。・・・
  我前本為賊 指鬘名普聞
   :
  今已帰命佛 受真諦法戒
  逮得三通達 則順諸佛教
  昔暴懷凶毒 多傷衆類命
  雖古多所危 吾今名無害
   :
  如是鴦掘摩 已得成羅漢
  在佛世尊前 口自頌斯偈


う〜む。
実に悩ましい。

「今昔物語集」はどういうつもりで、間違えたのだろうか。何故に、得体の知れぬ筋にしたままなのか。

「今昔物語集」は三流の人々が適当に寄せ集めたもの、と考えるならソリャそうなって当たり前だろう。
それにアングリマーラを扱う漢籍は腐るほどありピンキリ。たまたまママ引用したものが、その手の代物ということで一件落着だ。

しかし、「説話」を集めた書とはとうてい思えず、「酉陽雑俎」的エスプリの書の可能性もある。そうだとすれば、全く異なったものが見えてくることになる。
天竺では、アングリマーラという人物の性情は、人々のは琴線に触れるようで、その辺りが気になった筈だ。つまり、創作話が五万と生まれるモチーフということ。
仏教サロン的視点では、この類の話だと、原典探索に関心が向くことは滅多になく、それよりは面白い文献を探し出して大笑いとなる。間違ってはこまるが、嘲笑ではなく高踏的なもの。
そもそも、千人斬りで指集めせよと命ずる教祖様を盲信する人々とはどのような精神構造なのかに関心が払われるし、そんなカルト教徒を仏教徒にできるものかという話にも進むのが普通だろう。

従って、見方によっては、このなんだかわからなくなっている譚は、恣意的にそのように形成されたと言えなくもない。「佛説鴦崛摩經」の本質を抉りだすために。

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