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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.21] ■■■
[52] 歌物語(姥捨山)
巻三十本朝 付雑事/雑談(歌物語 恋愛譚)の続きを。・・・
良く知られる話を取り上げよう。
信濃更科の地の姥捨山伝説である。
  [巻三十#_9]信濃国姨母棄山語
わが心 慰めかねつ 更級や
  姥捨山に 照る月を見て

嫁が夫を責める。
 「姨母の心、極て悪き。
  深き山に将行て棄てよ。」と。
しかたなく、八月十五日夜の明月の時、
 法会と嘘をついて
 姨母を背負って山に入り置き去りに。
家に帰っても、寝られず、
 山上の月を見て独り言。
  ・・・これが冒頭の歌である。
そして、また山に登って、
 姨母を家に連れて帰った。
 今迄通り面倒をみたのである。

棄老譚と棄老寡婦は違うので注意が必要である。前者はジャータカ系によくでてくる。(マホーサダの智慧)
  【天竺部】巻五天竺 付仏前(釈迦本生譚)
  [巻五#32] 七十余人流遣他国語
老人の智慧で国が助かり、以後棄老を止める手の話だ。
一方、儒教的風土だと、棄老寡婦はかまわないが、棄老父は有りえない。老父を救うためには子殺し厭わずである。
ここでは、地名由来譚の扱い。

社会的にインパクトが大きかった話のようで、菅原孝標女[1008-1059年]が夫の死を悲しんで書いた日記のタイトルは"更科"。"月も出でで 闇にくれたる 姨捨に なにとて今宵 たづね来つらむ"が由来だが、その本歌は古今集の"わが心 慰めかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て"。
小生など、更科というと、もっぱら蕎麦で、異端か。
ご存知、松尾芭蕉:「更科紀行」は、明らかに、姥捨山での月見だけが目的。木曽の旅路を経て到着したのだから、ただならぬ決意だったことがわかる。直接的には言わないものの、冠着山[1,252m]の棚田の水面に映りこむ、田毎の月の情景を鑑賞せずにはいられなかったのだと思う。棚田開発は元禄期らしいが。

和歌は無いが、芥川龍之介:「好色」で知られる譚も見ておこう。
歌物語の巻の風体でまとめているというのに、えらく変わった嗜好だ。好色話に和歌など不要と考えているようにも思えないのだが。
コレ、在中(在原業平)と並ぶ平中(平定文/平貞文)の好色談と言うか、女好き男のバカさ加減のお話。
  [巻三十#_1]平定文仮借本院侍従語
龍之介こんな文章を引いて紹介している。
 平中といふ色ごのみにて、宮仕人とはさらなり、
  人の女など忍びて見ぬはなかりけり。【宇治拾遺物語】
 何でかこの人に不会では止まむと思ひ迷ける程に、
  平中病付にけり。
然て悩ける程に死にけり。【今昔物語】
 色を好むといふは、
  かやうのふるまひなり。【十訓抄】

本院の大臣家の、侍従の君と言う女房は、
  容姿が優れていると評判。
手紙を送っているのだがなんの音沙汰もない。
そこで、せめて、「見つ」というだけでも、と言い添えた。
すると、「見つ」の部分を切り取って、かえしてよこした。

しばらくして、五月雨の頃。
雨が降る真っ暗闇に訪問すれば会うだろうと、
 出かけていった。
 女の童に言伝させると
 お待ちくださいとのこと。
 大分たって、遣戸の鍵が外され
 平中、喜び勇んで中に。
 すると女は、
 障子の掛金を掛けに行く。
 待てど暮らせど戻って来ず仕舞。
しかたなしに、夜明け前に出て行くことに。

そのうち、平中、思いついた。
 女の糞便を見れば、
 恋い焦がれる気持ちも消えるだろうと。
 そこで、持ち出された函を奪い取った。
 開けると、丁子香がただよう。
 糞便ではなく香木が浮かんでいたのである。
お蔭で、平中、ますます愛おしくなってしまった。
そして、病気になり、
 悩みが高じて死亡。

もう一つついでに、平中譚。
こちらは、和歌付の正真正銘の歌物語。
  [巻三十#_2]会平定文女出家語
百敷の 袂の数は 見しかども
  なかに思ひ(の 色ぞ恋しき)

天[尼]の川 空なるものと 聞きしかど
  我が目の前の 涙なりけり

世を侘ぶる 涙ながれて 早くとも
  天[尼]の川やは 流るべからむ


平中、后宮に仕える女房の外出を見かけ
 早速、恋文を送る。
 しかし、誰に宛てたかわからないというので、
 それは思ひの色のお方ですと、書きつけた。
  ・・・これが冒頭の歌である。
 濃い緋色の衣を着ていた美しい娘だった。
 こうして、文のやり取りが始まり、
  ついに逢瀬。
 ところが、その後、
  平中からの連絡が途絶えてしまう。
  ひたすらなくばかりの日々が続き
   ついには剃髪し出家。
平中はその間お召しで行かれなかったのだ。
 さて、そろそろと思っていると手紙。
  ・・・これが二番目の歌である。
 髪が包まれており、平中落涙。
そして、返事を。
  ・・・これが三番目の歌である。
平中、訪問したのだが、会ってくれず。
 事情をお知らせず、こんなことになって、と
 お付きに語るしかなかった。

思うに、この歌物語巻では、姥捨山のようなシリアスな話と、好色以外になんのインテリジェンスもなさげな男の話の対比を描きたかったのかも。
一見、両者は正反対の行為に思ってしまうが、ヒトの情という点ではなんの違いもないということ。

そこに、歌物語の演歌的パターンも加えると、代表の勢揃いと言ってよいのではあるまいか。・・・
31文字の一句に、すべての情感を結晶させることができるかだ。
  [巻三十#_4]中務大輔娘成近江郡司婢語
これぞこの つひに逢ふ身[近江]を いとひつゝ
  世にはふれども いける甲斐[貝]無し

中務大輔には独り娘がいた。
 婿の兵衛佐も住むようになったが、家は貧。
 そのうち、父が逝去し、母は病に。
 なんとか生活というレベルだったが、
  母も死んで娘だけになり、
  使用人もいなくなってしまった。
そこで、夫の兵衛佐に、言う。
 お世話できる状態ではなくなり
 内裏出仕の身支度もままならず
 身の振り方をお考えになられては、と。
見捨てるつもりはなかったが、
 貧困はさらに進んでいくし
 妻も勧めるので
 決心して家を出た。
完璧に独り身になったが
 そのうち独りの尼が住みつき、
 なにかと面倒を見てもらったり。
その尼のもとに、近江から若い郡司が上京。
 男は夢中になったし、
 独りで生活するのも怖いこともあって、
 尼の勧めに従って、
 近江に一緒に下ることに。
しかし、近江にはもともとの妻がおり、
 嫉妬で騒ぐので避けられることに。
たまたま、国司新任行事が挙行され
 上品であるというので手伝いに。
 そこで、国司の目にとまり呼び出される。
 美しいので毎晩お呼びがかかる。
国司、なつかしさを覚え、由来を尋ねる。
 女が、それに答えたので、
 湖の波の音が聞こえるなかで、歌を詠んだ。
  ・・・それが冒頭の歌である。
それを切欠に、男は
 自分はもともとの夫であると語り
 涙を流す。
女は、それを知ると、息絶えてしまう。

湖の激しい波の音で、ざわめくなか、女の魂は揺らぎついには身から遊離していってしまうのだろう。
「今昔物語集」としては、最後にご教訓を入れなければならないところが辛い。温気付かないままにして、女の面倒をみるべきだったとの、一般的に思いつくような一言を入れざるを得ないのである。
もっとも、そのようなつまらぬことが書いてあるからこそ、「今昔物語集」を読む読者の心に響くことになる。この読者層には、歌物語原書より、このような話を読む方がより深く考えさせられるのである。

これと対比的に、女ではなく、落ちていく男の話も。
  [巻三十#_5]身貧男去妻成摂津守妻語
葦[悪し]刈らじと 思ひてこそは 別れしか
  などか難波の 浦にしも住む

君無くて 葦刈りけりと 思ふには
  いとど難波の 浦ぞ住み憂き

身分は高くなく、父母親族を欠き、
 仕える先も転々で、重用されることはなく、
 貧しい生活を送っている男の話。
若く美しく、心根が良い妻がおり、
 悩んだあげく、
 「生活は貧する一方。
  心機一転、別れて、
  違う道を進むのはどうか?」と。
 妻は、思ってもみなかったことですが、
 お試しになりたいなら
 それでもかまいません、と。
この女は、美しく気立てがよかったので、
 使われる先で可愛がられ、
 そのうち、後妻に。
 その主人は摂津守に。
一方、男は、落ちぶれる一方。
 京に住むところもなく、
 摂津に流れて行った。
  馴れぬ耕作も上手くなく
  難波で葦刈人夫になっていた。
たまたまだが、摂津守が、妻や従者を連れて
 車上で酒食をとりながら、
 難波の浦の景色を眺めに来ていた。
摂津守の北の方、
 葦刈の下人が沢山いるなかに
 かつての夫の姿を発見。
 品のよさそうな男がおり可哀想だと
  お側に呼びよせ、
  酒食を与え、
  最後に着物も。
 それに歌を添えたのである。
  ・・・それが冒頭の歌である。
男はもてなしに驚いたが、
 歌を見て、昔の妻だったことに気付く。
 哀しくなり、硯を借りて歌を書きつけた。
  ・・・それが二番目の歌である。
それを見た北の方は哀れで悲しく思った。
男はその場から逃げ去ってしまった。


現代感覚ではどう読むか考えてしまう歌もある。
  [巻三十#13]夫死女人後不嫁他夫語
かぞいろは(父と母) あはれと見らむ 燕そら
  二人は人に 契らぬものを


老夫婦が娘の行く末を案じ結婚させたのだが
 その夫が死んでしまう。
 再婚相手を探すのだが、
 娘にはその気無し。
  又、死んでしまうだけ、と。
老夫婦は先短いので、
 再婚を迫る。
娘は、
 一度夫を失えば、他の夫を迎えるのは
 禽獣ですらしない、と。
庇に巣をつくる燕の雄を殺し
 雌に赤い糸を目印に付けて放した。
 翌年、雌は再びやってきたが、独り。
 雄を迎えることなく飛び去って行ったと。
そこで娘が歌を詠んだ。
  ・・・それが冒頭の歌である。
そして、両親は再婚話を止めたのである。

"つまらぬ"目的のために、番の燕のうち雄だけを殺すという残忍な話でもあるし、"禽獣でさえ"という理由なき優越感に浸っていることもあり、詠むとそこらにも囚われがちだが、娘は愛を貫きたいという話でしかない。命あるものは、必ず死ぬのであり、自分は、全てをそれに注ぎたいと主張しているに等しい。両親からもらった命ではあるが、自分の意志を大切にすると語っている点で、極めて現代的である。
両親は娘のためと称するが、単に家を継承させたいだけの婚姻とも言えるし、娘は、そのような風習になんらの意義も見出せないのであろう。

作歌手引書である、源俊頼[1055-1129年]:「俊頼髄脳」[#281]に引かれているので、当時の歌詠みは皆知っていたと思われる。
そこでは、"むかし、男ありけり。"から始まるので、違った説明が始まるのかと思うと、その中身はこの譚の全面的引用。ご教訓の、"むかしの、女の心は、今様の、女の心には、似ざりけるにや。"まで入っている。ただ、浅学の身には、こちらの方が読みやすいが。但し、最後に、この話の底流に白楽天があると指摘している。・・・"つばくらめ、男ふたりせずといふこと、文集の文なりとぞ。"
成程。

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