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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.8.29] ■■■
[60] 漂着犀角
「犀の角のようにただ独り歩め。」[中村元訳「ブッダのことば スッタニパータ」岩波文庫]は有名だが、「今昔物語集」では、ビーチコーミング/海揚がりで犀角が登場してくる。

と言っても、漢方薬的な犀角ではなく、ベルトに付けるものとして。
説明が必要だろう。

石帯とは貴族の正装時の装身具。
逸品になると、貨幣的価値を超越した垂涎の品となる。
「延喜式」弾正台の装身規定に"玳瑁・瑪瑙・斑犀・象牙・沙魚皮・紫檀"とか、"烏犀"として登場するから、その手の貴重な飾りか、と言うことで分った気になりかねないので注意を要する。
良く見ると、そこに「駭鷄」とか「通天犀」という訳のわからぬ説明が書いてあるからだ。見たことが無いので実感が全く湧かぬが、要するに、天に通じる特別な呪物帯なのだ。
多少後世になるものの、"通天"寶帯には連城の価値ありと書いても誰も驚くことがなかった代物。・・・
 陸游[1125-1210年]:「韓太傳生日」@「剣南詩稿」巻五十一
 珥貂中使傳天語 一片驚路 清霜粲瓦初作寒 天為明時生帝傅
 黄金飾雕玉 上尊御食傳恩光 紫駝之峰熊掌 不数沙苑千群羊
 通天寶帯連城價 受賜雍容看拜下 神皇外孫風骨殊 凛凛英姿不容画
 問今何人致太平?綿地万里皆春耕 身際風云手扶日 異姓真王功第一

つまり、「通天犀」とは、京の大邸宅などものの数ではない、とてつもない財に相当する品ということになる。

ところが、そんなものを拾ったというのだ。
ビーチコーミングの状況解説としてはかなり詳しい。・・・
  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#46]能登守依直心息国得財語
 能登守は視察途中で浜辺を通りかかった。
 沖(息)に、小さく丸い物が波間に浮かんでいた。
  「何だ?」と尋ねても、
  伴の返答は、
  「見えません。」
 やがて、風の加減で浜に吹き寄せられた。
  弓で引きよせると、
   縄で幾重にも縛った平たい桶。
  縄を切り開けてみると、
   防水用油紙に包まれた箱が出て来た。
  藤縄で結わえてあり、解いてみると、
   糸で結わえた漆塗りの箱。
  箱を開けると、
   角を切って重ね、四角にまとめた犀角。
  取り出してみると、
   石帯三腰分だった。
 おそらく、震旦人が暴風雨で難破して
  その持ち物が漂着したのだろうと、いうことに。
  守は、喜んで持ち帰ったのである。

 その後、
  京で職人に三腰の石帯を作らせた。
   方形は三千石の価値。
   円形は2つあり、1つ千五百石。


但し、この譚の前半は、守の神仏帰依と善政ぶりと、その結果として国が大いに繁栄したとの記述。

棚から牡丹餅は、こうした行為へのご褒美ということになる。

能登の辺りは、海流の関係で、そんなことはよくあることかも。
同じような話が全く別な巻に収載されている。
こちらは、はたしてご褒美と言えるのかは、なんとも言い難し。
  【本朝世俗部】巻二十六本朝 付宿報
  [巻二十六#12]能登国鳳至孫得帯語
 能登の鳳至に住むその一族の者の話。
 
(能登国は羽咋, 能登/鹿島, 鳳至, 珠洲の4郡.)
 貧しく、よからぬ事に見舞われていた頃のことだが、
  陰陽師に吉凶占を頼むと、
  凶事ありだから、物忌みせよと。
  そこで、従者1人を連れて家を出ることに。
   被害に合いそうもないということとで
   浜で過ごすことに。
 海を見ていると、
  巨大な津波が来るのが見えたが、従者には見えず。
  取り憑かれた、と言われてしまう
  ついには燃える炎もみえたりしたので、
  独りで逃げようとしたが、従者が行かせない。
  そこで観念し、合掌し仏を念じて座っていた。
  結局、打ち寄せる波は静かになった。
 目を開くと、
  岸に丸くて黒い物が打ち上げられていた。
  今度は、従者の目にも入ったのである。
  そこで確かめることに。
 のぞいてみると、
  蓋付の小さな塗り物の桶だった。
  開けてみると、
    通天の犀の角で拵えた
    艶やかで微妙な色あいの帯。
 
(津波や火は、コレだったのである。)
 これは天が下さったのだ、ということで
  帯を持って帰宅。
 この後、豊かになり、大金持ちに。


ここで了かと思いきや、そうではない。
年老いて亡くなり、その独り息子が、帯を相続するところから次ぎの話が始まる。
もちろん、大金持ちとして、生活していたのだが。
 能登守善滋為政が帯の話を耳にした。
  
[1006年能登受領の慶滋為政の文字替え]
  そこで、先ず、見せよと、難題で責めたて、
  さらに、郎党達をその家に居候させ
  食事にも難癖をつけるなど
  嫌がらせのし放題。
 二代目は耐えていたが、
  帯を首にかけて領地外に遁走。
 能登守は、家財を没収して引き上げるしかなかった。
 二代目は転々としていたが、
  なんとか生活していた。
 そのうち、国司の任期が切れ、
  次代
[1010年]は源行任、次々代は藤原実房となった。
 そこで、帰国を認めてもらうことに。
 当然ながら、帯を奉じたのである。
 守は大いに喜び、
  早速にして上京し、関白に献上。


この話にでてくる能登守 源行任は、醍醐源氏の係累で(醍醐天皇⇒有明親王⇒守清⇒高雅⇒行任)、丹波、播磨、能登、越後、近江を歴任した、典型的な富裕受領。
もともとは能登の鳳至も含めていた、お隣の越後で受領をしていた時の話がある。漂着譚だが、奇妙な船だったと言うだけの話。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#18]越後国被打寄小船語
 源行任が越後守在任中のこと。
 浜に小さな船が漂着。
 此の船、異様に小さく
  広さ二尺五寸
  長さは一丈。
 悪戯に投げ入れたものか、とも思われたが
  よく見ると、
   横側一尺ほど間をおいて、
   梶を漕いだ跡があった。
   しかも、馴杭たる事限りなし。
  人が乗っていた船なのは間違いなさそう。
 一体、どんな人が乗っていたのか考えると
  珍物そのもの。
 その船を、守の舘へ担いでもっていったと。
 守、もちろん奇異なり、と。
  古老によれば、越後では前例ありと。
  ただ、他の国では聞いたことがない、とも。
  北の国からだろうか?、程度で皆目わからず。


小生は、「古事記」記載話を思い出してしまった。(大国主神が出雲の御大の御前にいる時、天の羅摩船に乗ってやってきた神産巣日神の子少彦名神。)
残念なことに、舟材と船の格好についての情報がない。大きく疾走可能な船の材は楠だが、耐久性はあるが荒れる岩礁域は避ける必要がある。そのような海域を航行するため、丈夫な硬木船があったのかも。加工が大変だからどうしても小型になる。磨けば輝く船になるし、被いをつければ嵐も乗り切れるかも。

[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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