→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.1] ■■■ [63] 度羅島 場所が何処か、はなはだわかりにくい話があるが、これを考えているとその感が深まるのである。・・・ 【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺) ●[巻三十一#12]鎮西人至度羅島語 鎮西□□の国□□の郡に住ける人の話。 商売で、沢山の人と一隻の船に乗って未知の地に出て、 帰国の途についた。 鎮西の未申の方角、はるか沖に大きな島があった。 人が住んでいそうなので、食料補給に上陸し、手分けして活動。 しばらくすると、山の方から、大勢の人達がやってくる音。 不穏な様子で、鬼ではないか、と判断。 急いで、皆乗船し、船を海上に。 やってきたのは、 烏帽子を折って結び 白い水干の袴を着けた 百人余の男達。 これなら怖れる要なしだが、知らない土地である。 殺されかねないし、大勢だから近寄らせないよう離れた。 男達は海際に来てさらに船下へと寄せるので 兵でもあり、弓箭・兵仗を登用することに。 それを見た男達は、無防備でもあり、 無言で山の方へと去っていった。 ともあれ、追われてもこまるので、遥か先へと去ったのである。 さて鎮西に帰ってからだが、 この出来事をあまねく人に語った。 老人が言うには 「それは度羅の島。 住人は、人の姿をしているが、人を食べる。」と。 実に注意深く"事実"を記載している。 鎮西は狭い地域を指すときは唐津北の松浦辺りを指すが、大宰府を鎮西府とも呼ぶから、ここでは九州のコト。出航地を隠す必要はなさそうに思うが、朝廷の許可なしに勝手に海外と交流していそうな地とされるのもまずいということか。 上陸した島に関する情報が極めて乏しいので、想定はかなり困難。 しかし、それさえわかれば、これだけで、もの知りなら何処かがわかるらしい。「度羅島」だというのである、 しかし、そう言われても、さらにソコは何処となるのが普通ではなかろうか。 そんな話を何故収録したのか考えてみたが、「度羅人」を思い出させるためではなかろうか。昔はよく知られていたのに、時代の変遷で、今や忘却のかなただから。インテリ以外は言葉さえわからぬかも知れない訳で。 本朝もこの先どうなることやら、ということでもある。 ネット・リソーシスを眺めると、この地を済州島と断定している場合が結構多い。 もともと、朝鮮半島とは文化的に全く異なる海人系居住地だし、漂流で到着しそうな島イメージもあるので、分からないでもない説だが、おそらく違う。 済州島は耽羅国[前57年-1402年]であり、「度羅島」と呼ばれたとの報告例はないし、文字の類似性があるとも言い難いからだ。百済⇒新羅⇒高麗の附庸國[938-1105年]という歴史からみて、モノは残っていても、衣装についても独自文化は抹消させられた筈で、上記の記載のような情景はあり得ないと見る。 マ、耽羅でしかない。 唐書で、泰山における高宗封禅の儀に参列されるため劉仁軌が新羅・百済・耽羅・倭の使者を率いたとされているし、耽羅使や耽羅人がたびたび来朝しているから[「日本書紀」]この名称を、勝手に度羅にすることは考えにくい。もちろん、耽羅漂着例もある。(778年遣唐使帰国第4船。そこから、薩摩甑島に。)[「続日本紀」] しかし、そうなると、何処かと言っても代替候補が思い浮かばない。 と言うのは、もともとは大いに知られていた地の筈だからだ。 かなりしっかりした統治体制があり、独自の文化を醸成していた国だったのは間違いない。それがわかるのは、雅楽寮についての記述がのこっているから。・・・ 雅楽寮には、頭、助、允、大属というマネジメント職と専門職がある。後者には、歌師、舞師、笛師に加え、渡来楽担当が揃っていた。(唐楽師、高麗楽師、新羅楽師、百済楽師、伎楽師、腰鼓師、度羅楽師、林邑楽師) 天平三年[731年]度羅楽の雑楽生は62人 婆理舞…6人舞(うち2人刀楯舞 4人桙持立) 久太舞…20人舞 邪禁女舞…5人舞(うち3人舞 2人花取) 韓与楚奪女舞…20人女舞(うち5人着甲帯刀) [惟宗直本:「令集解」(「養老令」注釈書@868年)"大属尾張浄足説"] 乙亥。定雅楽寮雑楽生員。大唐楽卅九人。百済楽廿六人。高麗楽八人。新羅楽四人。度羅楽六十二人。諸県舞八人。筑紫舞廿人。其大唐楽生、不言夏蕃。取堪教習者。百済・高麗・新羅等楽生、並取当蕃堪学者。但度羅楽。諸県。筑紫舞生、並取楽戸。[「続日本紀」巻第十一 天平三年七月] (雅楽はあくまでも宮廷楽であって、宋代復興版の孔子廟祭礼楽的なモノとは別と見るべきらしい。朝鮮半島の事例は参考にしない方がよいことになる。) 唐楽生39名に対し度羅楽生62人であり、とてつもなき重視と言ってよいだろう。林邑楽は736年婆羅門僧仏哲が持ち込み大安寺で伝習されたそうで、度羅楽はその直前の渡来なのだろう。 そうなると、ソリャどこだいとなるが、「酉陽雑俎」を読んでいればすぐに想像がつく。西域音楽大流行が記載されているからで、度羅とは吐火羅/トハラの可能性が高い。ソグドの隣のタリム盆地(疏勒、亀茲、焉耆、高昌)辺りを意味すると言ってよいのでは。 それを考えると、「今昔物語集」での度羅も吐火羅と違うか。 この用語だと、「日本書紀」にも登場してくるし。 654年[巻第廿五孝コ天皇白雉五年]夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舎衞女一人、被風流來于日向。 659年[巻第廿六齊明天皇齊明五年三月]丁亥、吐火羅人共妻舍衞婦人來。 西域からわざわざ日本に来る訳がなかろうと考えることになっているらしいが、逆だろう。言うまでもないが西域は真正仏教徒の交易命の地だからだ。上記では、日向に漂着したとあるから、彼らが選んだのは、玄界灘を目指す航路ではなかったのである。 そう考えると、吐噶喇/トカラ列島とは、吐火羅人漂着者が留まったことから名付けられた可能性もあろう。そこに航路のオアシス的拠点を作りたかったのかも知れない。 ところが、ここで問題がおきる。 度羅と指摘した老人の言葉が凄いからだ。 「其れは度羅の島と云ふ所にこそ有なれ。 其の島の人は、人の形ちにては有れども、人を食と為る所也。 然れば、案内知らずして、人其の島に行ぬれば、 然集り来て人を捕へて、只殺して食するとこそ聞侍りしか。 其達の心賢くて、近く寄せで逃たるにこそ有なれ。 近く寄なましかば、 百千の弓箭有りとも、 取付なむには叶はずして、 皆殺されなまし。」 人喰人種の危険な島の名前だというのである。 ただ、吐火羅人漂着者が留まって指導者に祭り上げられたことから名付けられた名称と考えるなら、さもありなん。西太平洋の黒潮域島嶼は概ね部族主義が濃厚で、部族闘争に係わる宗教儀式としてのカニバリズムが残っていたのは間違いないからだ。従って、このような見方は大陸でも普通に語られていたのである。 「今昔物語集」の編纂者は、その辺りを薄々感じており、拾遺としてこの譚を入れたのでは。 [ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |