→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.2] ■■■ [64] 琉球國 と言うのは、円珍[814-891年]の出家-修行過程や事績紹介とか、教説のエピソードを取り上げるための箇所だから。 しかも、いかにも、中身を100%信用してはいけない、とのご注意か、冗談半分で気軽に読んでほしいということではないかと思うような書きぶり。 編纂者の意図がよくわからないのである。 「今昔物語集」の読者に、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)のうちでも、伝教大師最澄⇒慈覚大師円仁⇒智証大師円珍が入唐したことを知らない人はいまい。にもかかわらず、「唐」を、わざわざ「宋」に替えて記載しているのだ。 円珍の人となりの部分をカットして中身を見てみよう。・・・ 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#12]智証大師亙唐伝顕密法帰来語 智証大師は讃岐の国那珂の郡金倉の郷の人。 「我れ、宋に渡て、 天台山に登て聖跡を礼拝し、五台山に詣て文殊に値遇せむ。」 と言うことで、 仁寿元年四月の十五日に、京を出て鎮西に向ふ。 仁壽三年[853年]八月十三日、宋商良暉の船で出航。 東風忽に迅して、船飛ぶが如く也。 十三日の申時に、北風出来て流れ行くに、 次の日、辰時許に琉球国に漂着つ。其の国は海中に有り。 人を食ふ国也。 遥に陸の上を見れば、数十の人、鉾を持て徘徊す。・・・ 「此の国、人を食ふ所也。悲哉、此にして命を失てむとす」 : 其の時に、俄に辰巳の風出来て、 戌亥を指て飛が如くに行程に、 次の日の午の時に、大宋嶺南道福州連江県の辺に着ぬ。 福州は嶺南道(現在の広東+広西壮族)の地域ではないなど、わざわざ信用性を失いかねない間違いをおかしているものの、具体的な地名が上がっている以上、ここでの琉球國とは、臺灣以外に考えられまい。 思うに、「唐」を1つの国と考えるべきでなく、バラバラであり、長安の中原が我々の考える「唐」であり、広東、閩、浙江は全く異なる国で、本朝の国の差異とは次元が違うということでの悪戯か。 ともあれ、ココでは、琉球国には人喰の風習あるとの話を聞き、円珍は悲しく思ったとの話が挿入されているにすぎない。そこから何らかの動きがあるという訳ではないから、それ以外に琉球國の特徴を示すことができなかったということだろう。 要するに、琉球は、島嶼の部族文化が色濃いということに過ぎない。 唐では、人喰い族との見方が一般的だったようだが、インテリはその概念が曖昧であることに気付いていたようだ。要するに、大海の島嶼は文化が全く異なる恐ろしき人々が住んでいるという意味で語られているだけと見ていたようである。 「今昔物語集」編纂者の場合はどうだったのかわからないが、朝廷が反逆者の首狩りを好み、一般大衆もそれを大喜びしていたことが記載されているから、かなりわかっていた可能性が高いが、大陸と違い本来的な意味での「奴隷」が本朝には存在していなかったので、理解できなかったかも。(「酉陽雑遡」の凄いのは、家の奴婢との交流が普通に記載されており、明らかに、その美的観念や情緒感を称えている点。供犠として生かしておく「奴隷」の時代との違いをことさら強調しているともいえる。) 日本的に整理するなら、古代の人喰い風習は、こう分類できよう。それぞれの土台は全く異なるが、宗教勢力によって意図的にゴチャ混ぜにされたと見てよいだろう。 《葬儀儀礼》…死者への哀悼と忘恩なきとの近親者の決意 ママ葬(屍肉食) 殯葬…仮安置⇒洗骨⇒納骨(骨噛み) 《部族戦闘/通過儀礼》…反国家の小部族共存社会での普遍的行事 敵将遺骸食 兵士能力証明 《敵国人絶滅戦争/敵国人供犠》…反国家勢力抹殺による"帝国"実現観念 奴隷供犠(供犠人肉食) 首狩/勝利宴酒食(頭蓋骨杯、骨箸) これらは過去のものではなく、完璧に残存していたり、形を変えて残されていることに気付いたのが「酉陽雑俎」の著者だが、「今昔物語集」の編纂者はどうだったのかは定かではない。 話を地理の方に戻そう。 円珍を大宰府から乗船させた宋の商人良暉とは、円仁を運んだ在唐新羅人の欽良暉であろう。乗船した通訳も、円仁の時と同一だろう。ほとんど定常的な交易活動がなされていたことを示しているのだと思われる。 そして、その船が誤って台湾に流されたということだから、入唐航路がなんとなく見えてくる。 先ずは「大宰府⇒松浦⇒五島列島」という目視海路で南進する。そして、気象状況と潮流加減を眺めながら出発の頃合いを図る。おそらくここが勝負。 ここから、南に進路をとるとか、大陸を目指すことはしなかったのである。そうすると、まず間違いなく黒潮反流に巻き込まれ、抜け出られないと南島に着くこともできず、台湾あるいは海南島まで流されかねないからだ。 従って、最初の目的地は、北の朝鮮半島南端近辺の海域。とんでもない遠回りだが、対馬海流に上手く乗りさえすれば確実性は高かろう。 半島が目視できたら、進路を南に向けて中国沿岸の港を目指すのである。ここらは結構潮目の読みは難しかろう。どうしてもパイロットとして新羅人が必要となる。だが、表だってそれを表明すれば命の保証はなくなるから、唐の帰化人である。 この航路が基本だとすると、宇佐八幡とはこの航路の安全祈願神ということになるのかも。 と言っても、平安京繁栄の頃は、本朝(太宰府)⇔新羅の交易航路はすでに確立していたようである。 【本朝世俗部】巻二十九本朝 付悪行(盗賊譚 動物譚) ●[巻二十九#31]鎮西人渡新羅値虎語 船上の人を狙った虎が、気付かれて、タイミングを外したので鰐鮫に噛みつかれて左前足を失うも、そこから流れる血で引きつけて、一気に陸にブチ上げたという譚だが、本朝には虎は棲んでいない訳で、場所は新羅。 鎮西□□の国□□の郡に住ける人、 商せむが為に、 船一に数の人乗て、新羅に渡にけり。 商し畢て返けるに、 新羅の山の根に副て漕行ける程に、 「船に水など汲入れむ」とて、 水の流れ出たる所にて、船を留めて、 人を下して、水を汲する・・・ 交易関係は微妙な問題を抱えていたようで、出身地を伏字にしている。 [ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |