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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.4] ■■■
[66] 四国辺地
四国遍路の解説では、弘法大師空海が石鎚山・大籠ヶ岳・室戸岬での苦行で、虚空蔵菩薩の真言を唱えたことによる超人的能力を得た話をよく耳にする。
ただ、四国における修行は空海以前からあったことは確実。特定の霊場に向かうのではなく、数多くの場所を回ることに意義を認める日本的巡礼文化はかなりの古層のようだ。(尚、巡礼という言葉は、円仁:「唐求法巡礼記」で使われている。)

その原形は不明だが、それを示唆する記述が2つあり、その1つが「今昔物語集」の"四国辺地僧行"。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#14]通四国辺地僧行不知所被打成馬語
仏道修行僧三人が連れ立って"四国の辺地"、伊予・讃岐・阿波・土佐の"海辺"を巡った話。
出だしはこうなる。
 仏の道を行ける僧、三人伴なひて、
 
四国の邊地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の
 海邊の廻也、


もう一書は後白河法皇[撰]:「梁塵秘抄」で、今様(俗謡)的な僧歌が収載されている。
 われらが修行せし様は
  忍辱袈裟をば肩に掛け
  又 笈を負ひ
  衣はいつとなくしほたれて
  
四国の辺地をぞ常に踏む [僧歌十三首#301]
 四方の霊験所は、
  伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、
  伯耆の大山、丹後の成相とか、
  
土佐の室生と
  
讃岐の志度の道場と
   こそ聞け。 
[霊験所歌六首#310]
 
土佐の船路は恐ろしや、
  室津が沖ならでは、
  島勢が岩は立て、
  佐喜や崎の浦々_、
  御厨の最御崎、
  金剛浄土のつれなごろ。 
[雑八十六首#348]

何故に巻三十一という、拾遺的なところで取り上げられているのかと言えば、この辺地修行者は学僧とは対比的な層だからだろう。
そう感じさせるのは、比叡山から向かった僧の話も収載されているから。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#15]比叡山僧長増往生語
比叡山延暦寺の高僧長増念仏が乞食修行で四国を巡っていたという話。
ところが、弟子の清尋が伊予守藤原知章に伴って伊予国に下向。懐かしさがつのり、会いに行ってしまう。もちろん、その姿は乞食僧であり、どうしてそのような修行をしているかを伝える。そして、弟子は止めるのだが、その世界に戻って行くのである。

この話には、乞食僧も学僧もかわらずという、仏教教団としての原則論が流れている。換言すれば、乞食僧に対する人々の姿勢は厳しいものがあったということだろう。
  【本朝仏法部】巻二十本朝 付仏法(天狗・狐・蛇 冥界の往還 因果応報)
  [巻二十#26]白髪部猪麿打破乞食鉢感現報語
話は単純。三宝不信で布施をしない、備中 小田郡の白髪部 猪麿が、家に来た乞食僧を詈り打ぢ、持っていた鉢を打し壊し、追い去らせたというだけのこと。その後、他の郷に行く途中で天候が変わり、雨宿りしていたら、建物が倒れ圧死。
そこには原則がしっかりと記載されている。
 乞食と云へども、皆三宝の内也。
 其の中にも、
 乞食の中にこそ、古も今も仏菩薩の化身は在り


誰でも、それはそうだとなるが、現実社会は厳しいものがある。
  [巻二十#25]古京人打乞食感現報語
因果を信じていない人の乞食僧への対処。
 室に入って来たと見るや"嗔を成して打む"であり、
 田の水の中に走り入り逃げるも追て打つ、となる。
もちろん、乞食僧迫害者は仏罰を受けるのである。

さて、最初に示した"通四国辺地僧行不知所被打成馬語"のストーリーだが、こんなところ。・・・
 修行僧3名が、
  四国辺地の伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。
 ある日道に迷ってしまい、山中深く入り込んでしまい、
  浜辺に出られない。
  さらに、人跡未踏の深い谷に入ってしまったが、
  どうやら、平地に出ることができた。
 垣根があり、中に入ってみると、建物がある。
 鬼が居ようと、外に手もないから、
  「お願いいたす。」と声をかけた。
 問われたので
  「修行者でございますが、道に迷って困っております。
   道を教えて頂けまいか。」と。
  「しばらくお待ちを。」との返事があり、
 60才位の僧形の姿だが、まことにおそろしげな者が登場。
 覚悟ができていたから、家に上がる。
  すると、立派な食事を供された。
 食事が終わると、
  その主、人を呼んで例のモノを取ってくるよう命じる。
  この者も僧形で、持って来たのは馬の轡と鞭。
  主、「何時も通りに。」と言う。
 すると、その者は、一人の修行僧をいきなり庭に引き摺り出し、
  背中を鞭で50回打ち、着物をはがし、加えて50回。
  ぐったりした僧を引き起こすと馬になっていた。
  そこで轡を嵌め引き立てていったのである。
  さらに二人目も同じように。
 三人目となる修行僧は、ただただ、御本尊を念じていた。
  「しばらく置いておけ。」ということになったものの
  僧はどうしたらよいか考えたが、名案なし。
  そのうち、
  「あちらの後ろの方の田に水があるか見てこい。」と言われ、
  見てきたり、などしたが、そのうち夜に。
 これは逃げる手かないということで、ただただ走り去る。
 5〜6町ほと行くと家があり、その前に女房が立っていた。
  どうしたのか尋ねられるので、
  「お助け下さい。」と。
  家に入れてもらえ、話をしてくれたのである。
  「長年このようなことがありますが、
   私の力ではどうにもなりませぬ。
   しかし、あなた様だけはお助けしましょう。」と
  手紙をしたため、妹の家へ逃げるように言う。
  言われた通りにすると、その家に行き着いた。
  妹も同じように、その主は恐ろしい輩。
  見つからないよう匿ってもらい、
  なんとか脱出できたのである。
 この僧は、2人の女房と、絶対に広言しない旨
  約束をしたが、里につくとすべてを話してしまった。
 そこで、腕に自信がある若者達が
  勇んで退治に出かけようとしたが
  道が無いのでそのうち立ち消えに。
 その後、僧は上京。
  馬に変えられた僧のために、功徳を積んだ。


境界を越えて異界に入れば喰われたり、畜生にされたりは、当たり前というのが当時の考え方だから、凡庸な話と見てよいだろう。だからこそ、四国辺地修行にはピッタリと言えなくもない。現代で言えば、なにも知らぬが流行っているのでお遍路巡りに行く風潮に棹差す話をしたかったとすれば、であるが。

そう思うのは、ご教訓が、まさにその点を突いているからだ。
  身を棄てて行ふと云ひ乍らも、
  無下に知らざらむ所には行くべからず

温暖な地と聞いて、気楽な気分で四国辺地での修行を始めようとする僧に釘を刺したのであろう。身を棄てての修行は大切とエエ格好し、事情も知らぬアマチュアなのに、プロの真似をするとえらい目にあうぞ、と。

[ご注意]邦文はパブリック・ドメイン(著作権喪失)の《芳賀矢一[纂訂]:「攷証今昔物語集」冨山房 1913年》から引用するようにしていますが、必ずしもママではなく、勝手に改変している箇所があります。

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