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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.9.18] ■■■
[80] 地蔵講
お地蔵さまの縁日は24日。
ところが、その由縁の解説がさっぱり見当たらない。
そうなると、十斎日のもとを見るしかない。
  《六/十斎日》
  __1日…定光仏
  ○_8日…薬師仏
  ○14日…賢劫千仏
  ○15日…阿弥陀仏
  _18日…観世音菩薩
  ○23日…勢至菩薩
  _
24日…地蔵菩薩
  _28日…毘盧遮那仏
  ○29日…薬王菩薩
  ○30日…釈迦牟尼仏


6斎日は、天竺における日待・月待の2半月暦から生まれたものらしい。仏法守護の四天王が関与しているようだ。
(参照) 河野法雲:「四天王と六齊日」佛教研究6, 1921
本朝でも、清原夏野,菅原清公,小野篁,他[撰]:「令義解」833年(基本法「養老令」の公的解釈書)巻十 雑令に記載されており、公的に定められていたことがわかる。

それが、10日に拡大したようだ。観音・地蔵菩薩信仰の広がりが急速に進んだ結果といえよう。
 於月 一日 八日 十四日 十五日
 十八日 二十三 二十四 二十八 二十九日 乃至 三十日。
 是諸日等諸罪結集定其輕重。

  [實叉難陀[譯]:「地蔵菩薩本願経」卷上 如來讃歎品第六@正蔵十三#783]
マ、それぞれの日に佛を割り当てるのは自然な流れと言うべきか。

十斎日は地蔵菩薩主導で決まったように見えるのは、おそらく、斎日とは善悪行を確実に記録される日とされ、冥界での裁定に大きく影響するということで、地蔵菩薩が関与すると考えたからだろう。
この日ばかりは、何がなんでも精進斎戒せねばとなった筈で、過悔法要も営まれたかも。

そんな気分になるのは、「今昔物語集」【本朝仏法部】巻十七 本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚)のなかに24日をことさら強調する譚があるから。
しかも地理的にバラけている。

これが霊験かはよくわからない筋。そこががポイント。
他の菩薩とどう違うのかさっぱりわからぬ、霊験の定型パターンをこれでもかと並べる風潮に一矢。
単なる牛飼い童も菩薩かもしれまぜんゾという訳だ。しかし、これこそが大乗の真髄と言いたいという訳ではなく、天竺の古い時代からそんなものだったと考えているのではなかろうか。
【西京】
  [巻十七#_1]願値遇地蔵菩薩変化語
 西京に住む僧、生身の地蔵遭遇を願う。
 諸国、地蔵の霊験地を巡歴。
 そんなこと有りえない、と嘲笑される。
 常陸国で賤の下人の家に宿泊した時のこと。
 年老たる嫗のみだったが、そこに牛飼いの童がやって来た。
 
24日生まれなので地蔵と呼ばれていた。
 その子は地蔵の化身だった。

何故に菩薩が童形かと言えば、浄土に往けない亡くなった赤子や幼児を救うには、同じ姿で対処するしかないからだろう。この観念は、現代にも引き継がれており、水子供養の造像数は膨大なのはご存知の通り。

次は、乱暴者が本格的な地蔵信仰者という点が光る譚。
社会に合わせて"大人しく"することができない性情の人は少数とはいえいつの時代でもいるもの。ただ、その心の内を見抜くのは並大抵なことではない。無頼に見えても、その心は実は地蔵の慈悲と根底は同じだヨと指摘した聖の鋭さ。
【武蔵】
  [巻十七#_2]紀用方仕地蔵菩薩蒙利益語
 武勇邪見の武蔵の介紀の用方、地蔵を信仰。
 
24日には、禁酒禁食肉禁女色。地蔵菩薩を念じていた。
 しかし、乱暴者。常に謗り笑われていた。
 その紀用方、阿弥陀聖に出会ったのである。
 地蔵の化身と敬われてしまう。
 そこで出家し極楽往生。


もちろん、いかにもという定型タイプもある。
「酉陽雑俎」でも、この手の話は定番モノという調子で書かれており、各地各様の伝承があるのは誰でもご存知。しかし、おそらく「今昔物語集」編纂者の関心はそこにはなく、造像/描画の方。もちろん、救ってもらったなら、そのような功徳をするのは当然との観念がある訳だが、そこに留まっている訳ではない。
直接関係していない人でも、この話を聞き、その有り難さを感じたなら同じ行為を、という流れを示唆していると読んだ方がよかろう。
【備中】
  [巻十七#_4]依念地蔵菩薩遁主殺難語
 備中 藤原文時家は繁昌。
 従者に不調者。瞋って津の坂で処刑を命じた。
 連行日は
24日だった。
 地蔵に助けてくれるよう祈念し、造像を発願。
 僧が文時を訪問し、この日の殺生は悪行だから控えよ、と。
 急遽、取り止めに。
 しかし、一行はすでに出発済で、連絡つかぬはるか先。
 処刑場に到着してしまった。
  そこに「主人の命だ。殺すな。」との小僧の声。
  お蔭で、処刑中止連絡が間に合った。
 不調者は戻され、文時は仔細を聞く。
 地蔵の造像/描画が恒例化される。


地蔵信仰伝播は凄まじく、社会全体がその流れに乗ってしまったようである。
【陸奥 小松寺】
  [巻十七#_8]沙弥蔵念世称地蔵変化語
 陸奥の小松寺に蔵念という僧あり。
 
24日生まれの故にこの命名。
 もっぱら地蔵菩薩を敬う。
 日常生活は変わっており、家々を回って歩くお方。
 錫杖の音を響かせ、地蔵名号を口唱し、宝螺を吹いた。
 帰依する人々は多く、殺生者も改心。皆、蔵念を拝んだ。
 70才になり、山に入り、その後は行方知れず。
 人々は蔵念は地蔵菩薩の化身とみなした。


地元で地蔵菩薩に祈祷し、京の地蔵の山で臨終するようお告げをうけ、はるばる上京し縁日に極楽往生という話。地蔵菩薩との結縁日が極めて重要視されていたことがわかる。
【肥前背振山】
  [巻十七#14]依地蔵示従鎮西移愛宕護僧語
 鎮西背振山は性空聖人ゆかりの深山。
 持経者がおり、この地で日夜法華経読誦し、寝ても地蔵尊念仏。
 60才になり、いよいよ、来世のための用意をせねば、と。
 先ずは、臨終の地を教えて頂きたいと、御本尊に祈願した。
 夢に端正は小僧が出現し、愛宕護山の白雲峰に行けと教えてくれた。
 そして、往生すべき日は
24日とも。
 早速、旅立ち。
 そして、
24日に白雲峰に到着し、樹下で夜を明かすした。
 愛宕護の僧達は持経者仔細の程を訊ねるものの、
  鎮西からやって来たと答えるのみ。
 僧達は哀れみ、朝夕飯食を出したのだが。
 翌月
24日、持経者は入滅。
 貴きこと限りなしという状況だった。
 持経者の経袋を見ると、一紙。
 そこには、背振山での夢の内容が書かれていた。
 愛宕護の僧達は讃嘆。追善供養を行った。


どうして、そこまで結縁日にこだわるのかを考えてみたが、社会的に節目の日とされていたからだろう。震旦で言えば、それは、神仏誕辰法義日の行事"廟会"を行う日ということで、その日には信仰者が集まり読経し説法を聴いた上で共食し、歌舞を眺めて過ごしたのだと思う。現代で言えば、地域のコミュニtィ活動の一大イベントということになろう。
本朝の用語で言えば"講"。思うに、地蔵講がその端緒だったのでは。・・・
【京 祇陀林寺】
  [巻十七#10]僧仁康祈念地蔵遁疫癘難語
 京 祇陀林寺の僧 仁康は道心堅固にして、衆を哀れむこと仏の如し。
 京内外で疫病大流行。1023年のこと。
 仁康の夢に端正な小僧が出現しお告げ。
  「世を救うために地蔵菩薩像を造り、功徳を讃歎すべし。」
 早速、高名な仏師に依頼。
 供養し、
地蔵講を。
 この講での結縁者は皆その疫病罹患を免れたのであった。
 仁康は80才で天寿。
 西方向かって居し、阿弥陀仏と地蔵菩薩の名号を唱え
 眠るごとくに失滅したと。


危険な徴用仕事にかり出されても、奇跡的な生還ができたりするのだから、地域全体での信仰に発展し易い素地もあろう。24日は、その紐帯を確認する日とも言えそう。
【伊勢飯高】
  [巻十七#13]伊勢国人依地蔵助存命語
 伊勢飯高の住人の話。
 毎月
24日には精進し受戒し、地蔵菩薩を念じた。
 年来の務めとしていた。
 この地では、
 水銀掘り人夫に徴用されることになっていた。
 ある日、同郷の3人と、水銀を掘りに行き、
 穴を掘り10丈余りに達したところ、
 穴口の土が崩れ、
 仲間二人と一緒に空洞に生き埋めに。
 共に涙し、出られそうになく、死ぬだけと悲しむ。
 この男は
 常日頃、地蔵菩薩を念じていたのは、
 このような時に救って頂くためであり、
 一心に大悲の誓を以て助け給えと念じる。
 すると暗い穴の中に火の光が現れ、
 10才ほどの端厳な姿の小僧が紙燭を持って現れ
 「速やかに、自分の後に付いて来い。」と指示。
 言われた通りにすると、里に出ており、涙々。
 小僧は消えており、自分の家の前に到着。
 仲間もいると思って振り返っても自分独り。
 紙燭の灯りが見え無かったのだろうが、
 それは地蔵菩薩を信心していなかったからだろう。
 家族は大喜びし、共に地蔵菩薩を念じた。
 話を聞いた里の人々は地蔵菩薩像を沢山造り、
 水銀の山に入る時は菩薩を念じた。


地蔵講は全国的に寺毎に行われていたのだろう。祇陀林寺と六波羅蜜寺は特に知られていたようだ。"講"組織と運営方法や、内容は千差万別だったろうが、有名な"講"のやり方が各地に拡がるのにそう時間はかかるまい。・・・
【京 六波羅蜜寺】
  [巻十七#28]京住女人依地蔵助得活語
 京 帯刀町の辺に、
 事情があって東国から上京した女性が住んでいた。
 善心なこともあり、
 月
24日の六波羅蜜寺の地蔵講に参じた。
 聴講するうち、地蔵誓願で発心。
 そんなことで、
 衣を脱いで仏師に与へて地蔵菩薩造像。
 未開眼のうちに、病にかかり悩み煩って、遂に死去。
 子等は、傍らで泣き悲んでいたが、三時余で蘇生。
 子供に言うには、
  「独りで広野を行くと、道に迷ってしまった。
   そうこうする間に、
   冠の官人が一人出て来て捕えられた。
   すると、端正な一人の小僧が出て来て
    "この女は我が母。速に放免すべし。」と。
   官人は、これに対応し、一巻の書を取出し
   私に言うのだ。
    "汝には二罪あるから、早く懺悔せよ。
     一つは男婬。泥塔供養すべし。
    もう一つは、参じて法を聞く間、途中で出て行ったこと。"
   知っているかと問うので、そんなことは知らないと答えた。
   小僧がそこで、
    "我は、汝が造った地蔵菩薩である。
     汝の造像故、我れ来たりて汝を助るのだ。
     速に本国に返るように。」と宣い、
   返る道を教えて、帰って来たのだ。」
 その後、雲林院の僧の話によれば、
 泥塔を造り、供養し、懺悔を行ったという。
 もちろん、地蔵菩薩への懃ろな礼拝供養も。


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