→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.27] ■■■ [119] 餌取法師 【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚) ●[巻十五#27]北山餌取法師往生語 ●[巻十五#28]鎮西餌取法師往生語 餌取法師がどのような僧とされているか定かではないが、"餌を取る"と言っても動物殺生を行っている訳ではなく、死体の肉を食べて生活していると語っているところを見ると、かつては森の狩猟生活者だったのだろう。 しかも妻帯者だから、紛れもなき破戒僧と見なせる。しかし、極楽往生しているのだ。 このことは、僧にとって肉食・妻帯はなんら問題なしということになろう。後世に誕生する宗派の主張が、ここではとっくに実現していることになる。 さて、この餌取法師という用語だが、おそらく動物解体を生業にしている法師との意味だろう。 当時は、動物死骸の解体場所が、恵止利小路/餌取小路(現:西小路通)だったから、そこらに登場する法師と見る訳である。小路とされてはいるが7m道路であり、荘園も多いから、一番便利な場所だったのだろう。 この道路名だが、貴族が飼う鷹と犬の餌を調達する場所だったからの命名と見る訳で、死んだ牛馬が捨てられる場所でもあった筈。そこには皮等の利用できる部位の調達人、鷹・犬用餌の調達人、等々が集まってくる訳で、動物死骸の解体人が死骸を処理していたことになる。都会ならではの仕組み。 血や死体を穢れたモノと見なす文化だから、表立った制度にされてはいないだろうが、問題が発生したことはなさそうだから自律的に上手く運営されていたことになる。 北山の餌取法師の話は、登場人物と後に創健される寺について知識を得てから読んだ方がよい。 延昌/慈念/"平等房和尚" 880年 誕生@加賀 幼時 出家 玄昭に師事 顕密兼学 935年 法性寺阿闍梨 939年 法性寺座主 940年 内供奉十禅師 945年 律師 946年 15代天台座主 僧正位 964年 入滅 《補陀落寺》@静市静原志津原 鞍馬街道の篠峠は江戸期に切り開かれたようだが、現在はその崖上にある。小野小町終焉の地とされ、945年清原深養父建立との伝承もある。 その前身は、クダラコージ山/補陀落寺山/常嘗山(613m)を後背とし、江文峠西の谷上にあった墓守寺であろう。ここら一帯は死者を葬る霊域だったのである。 (参照)京都風光(京都寺社案内) と言うことで、内容に移ろう。・・・ 比叡山西塔の延昌僧正が下臈で修行中の頃。 北山の奥に一人で入った。 大原山の戌亥の方角に向って、奥深い山を通過。 人里がありそうに思ってしまったが、違った。 西の谷の方に煙があり、人が住んでいると喜んで近付いて行った。 それは小さな家だった。 呼ぶと、女がでてきて、どなたかと訊く。 修行者で、山で路に迷ってしまいました。 今夜さけ宿泊をお願いしたいと言うと、 家に入れてくれた。 柴が積んでありその上に座った。 しばらくすると、 年老いた法師が荷物持ってやって来て、 放り投げてから、奥へと入っていった。 女は荷をほどき、 中身を刀で小さく切り鍋に入れて煮たのである。 その香りは臭き事限りなし。 十分煮てから、取り揚げて切り、 それを法師と女の二人で食べたのである。 その後、小鍋で湯を沸かした。 法師を女は、夫婦であり、一緒に寝た。 延昌は、実にあさましき事と思った。 馬・牛肉を食べるのだから、餌取であろうから 怖ろしくて、夜は寄り臥して過ごすことに。 夜明けが近付くと、法師が起きてきて、湯で沐浴。 衣を代えて外出。 怪しいと思い、延昌は密かにあとを追った。 到着したのは、小さな庵だった。 延昌は、その外で立ち聞きしていた。 法師は、灯火をつけ、香を焚いて言うことには、 「早う、仏の御前に居て、 (阿)弥陀の念仏を唱て行ふ也けり。」 延昌は、この行いを知り、とても哀れで貴く思ったのである。 夜明けになり行が終わった。 庵を出る法師と延昌が出合ったのである。 「賎人とお見受けしたのですが、 このような行をなさるのは どういうことですか?」ときくと、 餌取法師は言った。 「己は、奇異く弊き身。 侍るのは、己の年来の妻。 食物が無ければ、餌取の取残した馬牛の肉を取り持ち来て それを噉て、命を養っているに過ぎず。 しかし、念仏を唱える以外、勤める事はないので、 年来の行に。 己れが死んだ時は必ず告知申し上げますから、 その後で、この場所に寺を起こしてくださいませ。 今日、そのように譲り給うとお約束したということで。」 契を交わし、修行者はそこから離れ、 様々な場所で修行してから、西塔の房に返った。 その後、年月が積み重なり、 修行者も餌取との契など皆忘れていたが、 3三月晦日、夢に、西方から微妙な音楽が空から流れてきた。 しばらくすると、房前に近付き、戸を叩いた。 誰かと問うと、 先年、北山で契った乞食であると。 人間界を去り、極楽の迎えを得たので参りました。 そのことを告げるお約束でしたので、 こうして申し上げるのです、と。 そして、遥か西を指すと、音楽が去ってしまった。 房から出て会おうと思って起立したら、 夢から覚めたのである。 驚き怪しみ、夜が明けた後、弟子の僧を呼んで、 件の北山を教え見に遣わした。 僧がその場所に行ってみると、妻が一人が泣いていた。 妻は、我が夫は今夜半に、貴く念仏を唱えて逝去致しましたと言う。 弟子はその旨を師に申し上げると、 師は涙を流し際限なく貴んだのである。 その後延昌僧正は、 村上天皇にこの事を申し上げ、 その場所に寺を起こし、補陀落寺と名付けた。 ご教訓としては、肉食は禁忌ではない、となる。 そして、極楽往生は、念仏次第。 おそらく、この譚は、天台座主が浄土教へ傾倒したことも語っているのだろう。人生の目標は極楽往生と説く時代の先頭に立った訳である。 極めてよく似た餌取法師の話が対になって収載されている。 しかし、京の北山とは違い、都会近辺ではない。飼われている鷹や犬の食餌の需要は僅少で、餌取が成り立つとは思えない。 そうなると、ヒトの食物を餌とは呼ばないから、畜生界に属すレベルの人間と見なす蔑称と言うことになろう。 すでに、肉食せざるを得ない人々をコミュニティから排除する社会になっていたことを物語る。 話の中身はこんな感じ。 60以上の国を巡って来た修行僧、 貴き霊験地礼拝を続けていてbr> 鎮西に入ったところ 人無き山中に迷い込んだ。 人里に出ようとしてもさっぱり埒があかない。 ところが、山中で草庵を見つけ喜んで行き 宿泊をお願いすると、 中から女が出てきて言う。 「ここは泊めてあげる場所ではありません。」 そこで、状況を説明しお願いする。 「己は修行僧。 山で迷い、身は疲れ、力が入りませぬ。 幸運にもここに到達した次第。 どうあろうと泊めて頂きたく。」 それでは、今夜だけ、と。 喜んで入ると浄き筵薦を敷いてくれ、 浄き食物を出してくれたので完食。 夜に入り、人が入って来て荷物を置いた。 法師であるが、 頭髪は3〜4寸伸びており、綴りを着ている。 怖ろしく穢く、近づくどころではない。 法師は訪問者のことを女から聞くと、 「この5〜6年、 この様な人が見えたことは無い。 思いがけぬこと。」と言う。 僧は、奇異な場所の、餌取の家に来てしまったことに気付く。 行く所もないので 夜は、臭気充満のなか、穢く侘い気分で過ごした。 寝ないでいると、 法師が起きてきて、湯で沐浴。 衣を代えて外出。 この法師起きて 密かにあとを追ったところ 庵の後に一間の持仏堂があり、そこに入った。 灯火をつけ、香を焚き、法花の懺法。 続いて、法花経一部を誦し礼拝。 それから、(阿)弥陀の念仏を唱えた。 僧は、比類なきほど貴く思ったのである。 夜が明け、法師は持仏堂から出てきて語る。 「この浄尊は愚痴で、悟るも無い弟子。 人の身として生を受け、法師と成ったものの、 戒を破り、慚無し。かえって、悪道に堕ちている状態。 今生の世で、栄花を楽しむような身ではない。 仏の道を願って、戒律遵守、三業を調へるといった、 仏の教へに沿うことができないのだ。 凡夫の身であり、衣食でも罪造り。 お布施を望んでも、その恩に報いることも難しい。 と言うことで、こうした諸般の事すべてが罪となってしまう。 こんなことだから、 浄尊は世間の人々が望む食から離なれ、命を繋ぎ仏道を願うしかない。 それが、所謂、牛馬の肉村ということ。 宿世の縁が有るので、ここに来りということ。 喜び、告げ申そう。 浄尊、今から何年を経て、 某年某月某日に、人間界を棄て、極楽往生することに。 もしも、結縁したいと思うならば、その時に来給へ。」 僧は、賤で乞食の様に見えるが、実に貴き聖人である、と思い、 契りを結んで里に出た。 年月を経て、契約の時になり、 虚実を知るために出かけた。 浄尊、大喜びし、 「今夜、身を捨て、極楽に往生する所存。 既に、3〜4か月肉食も断っておる。」と。 剃髪、沐浴し浄衣に着替えた。 女は尼になっていた。 そうこうするうち、夜に。 共に、終夜、念仏を唱えるということで 浄尊と尼は持仏堂に入った。 夜明けになろうかという時、庵の中が光り輝いた。 奇異し事と思っていると、 空から微妙な音楽が流れ、しばらくして西へ消えていった。 その間、庵内には艶ず馥しき香りが満ちていた。 夜が明け、僧は、持仏堂に入った。 浄尊と尼は共に合唱し 西に向かい端坐し死んで 死んでいた。 僧は、これを見て、涙を流しながら礼拝。 その場所から去らず、庵に留り住むことに。 そこで、仏法を修行したのである。 「今昔物語集」の編纂者は、禁肉食の破戒僧でも極楽往生できる点そのものに力点を置きたいのではなく、賤の人々を社会から外す文化を問題視させたいように見える。 賤の人々は、自分の信仰を知られぬよう、夜にその時間を当てて隠れるようにお経をあげ、念仏を唱えているからだ。明らかにそれは非俗であり、聖人と呼ぶべきレベルなのである。 一方、非賤の人は逆の姿勢が目立ち、熱心な信仰者であることを周囲に見せつけることに腐心しているかのよう、との現実認識あってのこと。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |