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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.10.29] ■■■
[121] 打臥巫女
陰陽師の占いは重視されたとはいえ、吉凶判断は巫女のまかせるのが当時の風土。
巫女とは術者ではなく、神に仕える穢れを払う役割の女性だが、その役割のなかには神の言葉を伝えることも含まれる。
憑依しご託宣を与えるのは本朝の伝統でもあろう。天皇の御宣旨は女房が臣に伝達というのが基本形ということになる。

「事鬼道」とされた卑弥呼は女王だったから特別かもしれないが、伊勢の斎宮、賀茂の斎院、といった仕組みは文化的には古層に属すると見て間違いなさそう。

ただ、天皇の神聖としての権威が、俗的権力構造のなかで弱まってしまうと巫女的な意味での女房の意味は失われていく。唐朝的な後宮の女性になってしまうことになる。
本朝の場合、公文書は男性が学ぶ漢語だった訳だが、女房は漢語を使うことはなかったものの、男以上の知識を有し和歌や日記を書くことでその伝統を守ってきたとも言えよう。

そんなことを、つらつら考えてしまうのが打臥御子譚である。

と言うのは、「枕草子」百五十七段に登場するからだ。
 弘徽殿とは、閑院の左大将の女御をぞきこゆる。
  (藤原兼家の弟 太政大臣藤原公季女義子)
 その御方に、
 打臥といふ者の女
(打臥の巫女)、左京といひて、さぶらひけるを、
 「源中将
(宣方)、語らひてなむ」と、人々笑ふ。
源中将にしてみれば、左京は、どこか魅惑的といったところか。知り合うと離れがたくなるのだろう。
女房達にしてみれば、身分違いの卑しい出身の者と恋仲になるとは許せんということで、嘲笑するしかない訳だ。清少納言は階層や身分に関して細かく仕訳しており、このような行為に対しては結構冷酷なところがある。

「今昔物語集」の話の方は、男女の交情ではないから、なんということもない話。拾遺に入れときました程度の扱い。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#26]打臥御子巫語
 極めてよく当たる打臥と呼ばれる巫女がいた。
 露ほども違わないということで、皆、貴んでいる。
 賀茂の若宮が憑いていて、そのご託宣を頂戴できるという。
 この名前は、膝枕に伏して神託を得ることから来ている。
 法興院(藤原兼家)がお召しになり、
 ご神託を得ると全て正しい。
 そこで、正装をして膝を打臥の巫女に貸すように。
 勿論、これを拙いと見る人もいる。

ここでの"拙い"は藤原家身内のお咎めとみるべきだろう。親類・兄弟入り乱れての角逐がある訳で。

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