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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.20] ■■■
[143] 圓通大師大江定基
大江定基は出家し、寂心/慶滋保胤の弟子となった。後半生は事実上宋僧である。

本邦では漢文の第一人者ではあるものの、筆談しかできないままで入宋し、帰朝しなかった。
編年的に眺めるとこのような一生らしい。
《寂照/大江定基》
○962年:誕生(正三位参議文章博士大江済(斉)光三男)
○:文章得業生⇒文章博士
○987年:父死去(54才)
○988年:出家
○1003年:入宋
○:眞宗皇帝召見…圓通大師号・紫衣束帛下賎
○1006年:五台山参詣
○:(宋高級官僚と交流 道長等と文通)
○1034年:示寂@杭州清涼山/五台山

出家に至るエピソードはかなり詳しい。感情的起伏が激しい人に映る描き方である。
それにしても、会話ができないのに、どうして入宋を決意したのかがよくわからない。霊仙三蔵と円仁を慕ってのことだろうか。
しかも、描かれている話には"宋 v.s. 日本"というライバル意識が流れている。すべて、帰朝した弟子が伝えた話だし、宋朝側に訪問者を重視した記録は特になさそうだから、独り相撲的記述の可能性もあろう。
  [巻十九#_2]参河守大江定基出家語
 969-984年[円融期]、三河守大江定基朝臣の話。
 文章道の父を持ち、頭抜けた才で、慈悲深いお方。
○蔵人の巡りで守に任命された。
 もともとの妻もいるが、
 赴任先には、離れ難くなってしまった
 若い盛りで、端正な女を京から連れて行った。
 ところが、任地で重病発症し、
 しばらく患っていたが、
 心を尽くしたご祈祷のかいも無く、
 亡くなってしまった。
 堪え難き悲しみの余り、しばらく埋葬せず、
 亡骸を抱いて臥せていた。
 日が経ち、女の口を吸うと、酷い臭気。
 ようやくにして、女に対し疎ましく思うようになり、
 泣く泣く埋葬の儀。
 その後は
 「世は疎き物也けり。」と発心し
 仏道に入ろうと考えるように。
○そんな気分でいた時
 国で台風除けの風祭が行われ
 捕獲した猪を生贄として捌いているのを見て
 いよいよ道心が高まり出国を決意。
○又、
 雉を生け捕りにした者がいて
 守は、生肉は美味かろうと言う。
 その言葉に乗って殺戮を勧める郎党も。
 と言うことで、
 羽を毟り、包丁を入れたのである。
 雉は、血の涙を流し、断末魔の声をあげた。
 炙り焼きを食べ、流石、生は格段と言う郎党。
 それをじっと見ていた守は、
 大声で泣きだしたのである。
 そして、その日のうちに出国し上京。
 決意は固く、髻を切り出家。
○出家し寂照となり、
 都で行者説法していたところ
 ある家に呼ばれて上がった。
 美饌の食が供され
 御簾が巻き上げらえると
 そこには、上品な服装の離縁した妻が居た。
 そして、見合わせ、
 「あのバカ者の乞食をしている姿を見たいと思っていた。」と。
 しかし寂照は、
 恥ずかしめを受けた気にもならず、
 「貴い。」と。
 食を頂戴し、実に有り難いことで
 仏道、心ひとつなので、
 外道に会ったところで、微動だにせずとの気分。
○その後、
 震旦に渡り、やんごとなき聖跡巡礼をしよう、
  と考えるようになった。
 そこで、お暇ということで
 比叡山根本中堂、日吉に参詣。
 息子
(大江香基?)は比叡の僧だったので、
 僧坊を尋ねてきた。
 寂照、戸を開けて縁側に出て来た。
 月が明るい7月中旬の頃だったが、
 渡宋し聖跡巡礼するつもりなので、
 帰朝は難しいだろうから、
 会えるのはこれが最後の夜だろうと言う。
 比叡の山に住し、修行・学問を怠るな、と
 泣きながら言うので
 息子も又際限なく泣いた。
 帰京の道では、大阪まで見送ったのである。
 月明りの下、白露が光、虫の音が聞こえ、
 実に哀れな風情であったが、
 坂の下までくると、霧もかかって来て
 速くお返りというので
 息子は泣く泣く後にしたのである。
○その後、
 寂照は震旦で思いの通り巡礼を果たし
 待ち受けた皇帝にも拝謁し
 帰依させたのである。
 皇帝は、やんごとなき聖人を集め
 お堂を荘厳し、僧に懇ろな供養をさせた。
 そして、その斎会では、飛鉢法を行えと。
 皇帝は力を試そうとしたのである。
 寂照の番になり鉢を飛ばさずに受けようとすると
 制されたので、実情を語る。
 「日本では
  飛鉢法は特別。
  我はこの行法を修した事なない。
  古くにはこの法に習熟した人が居たと聞くが、
  末世になりこの法ができる人はいない。
  この法は絶えており、
  寂照は、鉢飛ばしはできない。」と。
 しかし、
 「日本の聖人の鉢は、遅し、遅し」と責めるので、
 寂照は、
 「本国の三宝助け給へ。
  もしも鉢を飛ばせないと、
  本国の極めつけの恥になる。」と念じた。
 すると、鉢は独楽の如くに回転し
 他の鉢より速く飛んで行って、
 供物を請けて返って来たのである。
 皇帝から始まり、大臣、百官、皆、拝礼。
 その後、皇帝は寂照を帰依するように。
○又、
 寂照、五臺山に参詣し、様々な功徳を修けた。
 衆僧への施浴も。
 供養していると、
 子を抱いて一匹の犬を連れた汚穢女が出て来た。
 瘡がありただならぬ穢気。
 皆、これを見て、汚いので、って追い払おうと。
 寂照、それを制し、女に食物を与へ返そうと。
 ところが、女は
 「瘡ができていて、堪へ難いほど辛いので、
  湯浴したくて参った次第。
  少しで結構なので湯浴させてください。」と。
 人々、これを聞き、って追い払おうと。
 ところが、女は、追はれて逃げ去り、 隙を見て湯屋に入り、
 子を抱きながら犬を連れたまま、 音をだして湯を浴びた。
 人々、これを聞き、、「打って追い出せ。」と言い出し、
 湯屋に入って見ると、
 かき消す様に失踪しており、驚き怪むことに。
 外に出て見廻すと、
 屋根より高いよところに、
 紫の雲が光って上昇していった。
 人々、これを見て、
 
(五臺山は文殊菩薩の聖地なので)
 「文殊菩薩の化身がいらっしゃったのだ。」と言い、
 泣いて悲しみ礼拝したが、後の祭り
○こうした話は、
 寂照に随伴した弟子 念救と云ふ僧が帰朝し、語ったもの。
○宋の皇帝は、寂照に帰依した。
 寂照は円通大師号を給わった。


寂照は"不通華言,善書札"[ 成尋:「參天台五台山記」卷第五]であり、どこまで宋人と交流できたのかは定かではない。
同じように話せない7名の弟子を引き連れて渡航したようだが、それは道長の私的な関心に合わせてモノを持ち帰るための帰国要員のようにも映る。
そう思うのは、突然、ずっと干されていた漢学者が、上奏した"漢詩"のお蔭で、道長が、一の子分である内定者を外して任官に賛成しているからだ。宋との公的交流はさせずに、欲しいものだけ入手ための手蔓は確保したかったのであろう。

次は、一見、情緒的なよくある手の話だが、これをどう感じるかは人によって違いそう。
 女は、何故に、わざわざ寂照のところまでやって来たのか?
 歌と立派な鏡箱から見て、どのような女なのか?
 寂照は"何故に返歌を伝えようとしないのか?
  [巻二十四#48]参河守大江定基送来読和歌語
 三河守大江定基朝臣の話。
 世情は惨憺たるもので、酷い飢饉状態。
 五月霖雨の時期、
 鏡を売りに来た女がいた。
 布張りの五寸ほどの蓋がついた、
 漆塗地に金蒔絵の箱。
 賦香陸奥紙で包まれていた。
 鏡箱には引き破った薄紙が入っており、
 上手な筆さばきで・・・。
  今日迄と 見るに涙の 増す鏡
   慣れぬる影を 人に語るな
 朝臣はこの歌を見て、
 道心の思いが募っていた頃でもあり、
 大いに涙を流した。
 そこで、返歌を鏡箱に入れ
 鏡はそのママ返した上、
 米十石を積載した車を送り届けた。
 車に付いていった雑色によると、
 五条油小路辺りの、
 荒廃した檜皮葺の家に車を置いて来たと言う。
 家主については語らなかったようだ。


こちらは、寂照の話がメインではなく、博学なので梵珠菩薩のようだと言われていたという法相宗の学僧を取り上げている話。
  [巻十七#38]律師清範知文殊化身語
 山階寺の学僧 律師清範[962−999年]は清水寺別当。
 
(当時、清水寺別当は興福寺/山階寺僧だった。)
 諸々の場所を訪れ説法し、道心深し。
 才が立つ大江定基/寂照は、公職中に出家した方だが、
 俗時代から心の隔てなく懇意にしていた。
 そこで、清範は持数珠を寂照に与えたのである。
 その後、入道は入宋。
 数珠を持って天子に拝謁。
 すると、幼児の皇子がでてきて
 その数珠は自分が持っていたという。
 そうなると、清範の生まれ変わりということになる。
 そして、清範は文殊菩薩とされたのである。
 
(皇子誕生の頃、清範は38才で死去していた。)

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