→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2019.11.24] ■■■ [147] 円仁入唐物語 【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史) ●[巻十一#11]慈覚大師亙唐伝顕密法帰来語 その前に、円仁の経歴を見ておこう。 【円仁/慈覚大師略歴】 ○794年:誕生@下野都賀(下都賀壬生) 俗姓 壬生 《修行》 ○802年 9才:大慈寺(師:広智) ○808年 15才:比叡山延暦寺(師:最澄/伝教大師) ○814年 21才:言試 ○816年 23才:得度 ○817年 24才:最澄東国巡礼に隨行 ○822年 29才:(最澄入滅 大乗戒壇勅許) ○829年 36才:(横川首楞厳院建立) 《渡唐》 ○836年:渡航1回目失敗 ○837年:渡航2回目失敗 ○838年:渡航成功…「入唐求法巡礼行記」記載開始 《於唐朝》 揚州⇒楚州⇒海州⇒"赤山"⇒登州⇒青州⇒鎮州⇒ ○840年 47才:五台山巡礼 ⇒太原府⇒普州⇒河中節度府⇒長安 ○842年:("会昌の廃仏") ○845年:長安出立 ○847年:新羅商人貿易船便乗し帰国@博多津 《天台密教確立》 ○848年:横川中堂建立(現在の堂は再建) 正面に赤山宮 総持院(根本道場)・常行三昧堂建立 《本朝各地に寺創建》 立石寺、毛越寺、中尊寺、大慈寺、延暦寺、・・・ ○854年 61才:3代延暦寺座主 ○864年 71才:示寂…遺言で無廟 墓所は谷の奥 記述は、ほぼこれに沿った形になっている。 ○承和[834-848年]の時代の聖、慈覚大師は、 俗姓が壬生氏で下野都賀出身。 誕生時、紫雲が棚引き、家の上を覆った。 その時、その地の広智菩薩という聖が、 遥かかなたから、この紫雲を見て驚き、家を訪ねたところ 男子出生だった。 広智菩薩は父母に その子は、必ず尊い聖人になりますから 父母であっても、その子を深く敬わうように、と説教。 男の子は成長し九歳に。 すると、父母に、 「私は出家したいと思っています。 広智のもとで、お経を習いたいです。」と言う。 習う経典が手に入ったが、それは法華経普門品だった。 これが、入門経緯。 ○ある時、この子が夢を見た。 一人の聖人が出現し、頭を撫でてくれた。 そのそばにいる人が、 「頭を撫でている人を知っているか?」と訊く。 「存じあげません。」と応えると、 「このお方は、比叡山の大師。 お前の師となるお方なので、 お前の頭を撫でたのですヨ。」と。 そこで夢から覚めたが、 自分が比叡山の僧になるとわかったのである。 そして、15才になり比叡山に登り、 初めて伝教大師にお会いすることに。 大師は微笑んでおられ、大変にお喜びになられ、 まるで旧知の人との再会のよう。 かつて見た夢と通りだったのである。 その後、剃髪し、円仁法師となった。 顕密の教えを学んだが、 賢く、すべてを理解してしまった。 ○そのうち、伝教大師がお亡くなりに。 そこで、唐で顕密の教えを学んで 極めようと決心し、838年渡唐。 天台山に登り、五薹山に参り、処々歩いて 聖跡を参拝し、仏法が伝わっている所では教えを学んだ。 ○その頃は、会昌天子という皇帝の御代。 仏法を滅ぼせとの宣旨を下し、 寺や塔を破壊して経典を焼き払い、 僧を捕らえて還俗させていた。 そんな時代、 大師は天子の使者に出会ってしまった。 大師は独りで、従者もいなかったが 使者は大師を見つけ、喜んで追いかけて来た。 大師は、お堂の中に逃げ込んだが、 追っ手の使者も堂内に入って捜索。 大師は仏像の並ぶ中に隠れ、不動明王を念じた。 使者は発見できなかったが そのうち、じっと見続けていると、 大師がもとの姿に。 死者は、どういうお方かと訊くので 日本国から仏法を学ぶために来た僧と答えたところ。 使者は恐れて、還俗させず、とりあえず皇帝に奏上。 早速、他国の聖は速やかに国外追放せよとの宣旨が下った。 そこで、使者は大師を釈放。 ○大師は喜んで、急いで他国へと逃げて行った。 途中、遥かな山を越えると、人家があり、 厳重に城壁が築かれ、周囲はしっかりと警備がされていた。 門の前に男が立っていたので、ここは何処か尋ねると これを見た大師は喜んで寄っていき、男に尋ねました。 とある長者様の家との答えで、逆に尋ね返されたので 仏法を学ぶために日本国から渡って来た僧で、 仏法を滅ぼす動きの時に来てしまったので、 しばらくの間隠れようということで、 人里離れた場所に来たのです、と言った。 すると、 「ここは訪問者は滅多にいませんし、極めて静かな地。 しばらく滞在し、世情が落ち着く迄お待ちになり、 仏法を学ばれたらどうでしょう?」と。 そこで、喜んで、中へ入ったが その途端に、門には鍵がかけられた。 遥か奥へ入っていくのだが、 家屋が重なり合っており、 沢山の人が住んで騒がしい所を通った。 そして、空家があり、そこを居場所にしてもらった。 しばらくここで過ごすにしくはなしと考え、 仏法に関わる物はないか探したが、皆無。 後方の家に近づいて立ち聞きしてみると、 人が呻いており、覗くと、縛られた人が天井から吊り下げられている。 血が垂れていて、その下の壺に集められていた。 何をしているのか尋ねても無返答。 どういうことかと、別の家を覗いてみると、同じ状況。 顔は真っ青で痩せ衰えて横たわっている沢山の人がいた。 そのうちの一人を差し招くと、這い寄って来たので尋ねた すると、木の切れ端を取り、 糸のように細い腕を伸ばして土に文字を書いたのである。 「ここは纐纈の城。 知らずに来た人に、物言わぬ薬を食べさせ、 次に太る薬を食べさせ、 その後、高いところから吊り下げ、 体のあちこちを切り裂き、血を出して壺に垂らす。 その血で纐纈を絞り染めにしているのだ。 知らないと、このような目に合される。 食べ物の中に胡麻のような黒ずんだものが入っていたら、 それは物が言えなくなる薬。 食べたふりをして、話しかけたら口がきけないようにうめき、 喋ってはいかない。 皆、の薬を知らずに食べてしまったから、こんな目に合されている。 なんとしても逃げろ。 と言っても、周りの門はしっかり錠がおろされていて、 滅多に出られるものではないが。」 大師は肝を潰し、呆然としたものの、居場所にいるしかない。 そのうち、食物が持ってこられ、 それには教えられたように胡麻のような物が盛ってあった。 そこで、食べるふりをして、懐の中に入れて外で捨ててしまった。 食事が終わると問いかけられたので、うめくだけで対応すると 上首尾と言った顔で戻って行き、今度は太らせる薬を持ってきて 沢山食べさせたのである。 人が去ってしまうと、 大師は丑寅(北東)方角に掌を合わせ礼拝し、 「本山の三宝薬師仏、 何卒、我をお助けになり、 故郷へ帰らせ給え。」と祈願。 すると、一匹の大きな犬が現れた。 大師の衣の袖を咥えて引っ張るので、ついていくと、 抜けられそうにはない水門に付いた。 しかし、犬はそこから大師を引っ張り出したのである。 外に出てしまうと、犬は消えてしまい、 外に出られた喜びで泣きながら走り去ったのである。 遥か野山を越えて人里に出ると、 里の人が尋ねるので仔細を語ると、 「そこは纐纈の城。 人の血を搾り取って生活しているところ。 そこに行ったら最後、二度と帰ってこれません。 仏か神のお助けがなければ、逃げられない場所。 尊い聖人だから逃げられたのでしょう。」と。 ○大師はさらに逃げて行き、王城辺りにやって来たので、 尋ねてみると、会昌天子は逝去し、新しい皇帝が即位しており、 仏法を滅ぼす動きは中止とのこと。 そこで希望通り、青龍寺の義操を師として密教を学んだ。 そして帰朝し、顕密の教えを伝えた。 玄奘:「大唐西域記」@646年から多数引用している「今昔物語集」編纂者が、円仁の「入唐求法巡礼行記」に目を通していない筈はなく、それを踏まえた話である。ただただ学ぼうという真摯な姿勢が感じられる書だから、円仁に対してシンパシーを感じていると思う。 この譚に登場する、円仁を救った犬だが、素性は書かれていない。と言うことは、新羅人海商達を指しているのかも。 その助力なくして、円仁は動けなかったと言っても過言ではないからだ。 当時の中華帝国の海沿い国際交易ネットワークは、目視航行の新羅小型船に支えられており、寄港地毎に仏寺が建立されている状態。安心して交流可能な基盤が作り上げられていたのである。その存在があったから、法難もやり過ごすことができたのであろう。 帰朝後、円仁が為政者の受戒に精力を出したのも、ここらの弾圧体験から来たものかも知れぬ。見方によっては、信仰一途から、政治に肩入れへと、大胆に姿勢を変えたとも言えるが、この譚を見てわかるように、先ずは現実を直視する人だったことがわかる。 中華帝国は巨大であり、常識では考えられぬ、通常の倫理感を突き抜けた商売で成り立つコミュニィもそこここに存在するのである。仏法が全く通用しそうにない世界の存在に気付かされたのであろう。 (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |