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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.2] ■■■
[155] 水の沫
"行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。淀(澱)みに浮ぶ泡沫[うたかた]は、かつ消えかつ結びて久しく留まる例なし。世の中にある、人と栖と、又、かくの如し。"
ご存知、鴨長明:「方丈記」1212年の、義務教育必習の一文。無常観の表現として覚えさせられる。

ただ、泡沫という表現なら、藤原公任[966-1041年 「和漢朗詠集」の撰者]の和歌がわかり易い。
  ここに消え かしこに結ぶ 水の泡の
  うき世にめぐる 身にこそありけれ
[「千載集」巻十九釈教#1202]
「維摩経」方便品の"此身如泡不得久立"からとったものだそうである。

そんな泡沫表現が記載されている譚がある。
「酉陽雑俎」では、このタイプの情感はまるっきり感じられないし、白楽天の詩でも類似のものを見かけたことがない。仏典に記載されているというのに。

  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#40]金峰山岳良算持経者語
 金峰山岳の東国出身の持経者 良算聖人の話。
 出家後、長らく穀物・塩を断ち、山菜・木の葉を常食に。
 法華経を信奉し、日夜読誦。他のお勤めはしなかった。
 深山に居続け、里に出ることはなかった。
 思うところは、

  「此の身は此れ水の沫也。
   命は亦朝の露也。
   然れば、我れ此の世の事を思はずして、
   後世の勤めを営てむ。」
 故郷を棄て、金峰山参詣。
 岳で庵に籠居。
 法華経読誦生活で10年以上を過ごしてきたのである。
 初めのうちは、
 鬼神がやって来て持経者を擾乱しようとした。
 怖れず、一心に法華経読誦していると、
 やがて、鬼神は経を貴ぶようになり、
 木の実や草の実を持参し、聖人を供養するように。
 さらに、熊、狐、毒蛇も来訪し供養を始めた。
 時には、美しい姿で素敵な衣服を着ている女人も。
 聖人の周りを廻って礼拝し帰って行くのである。
 いかにも幻のようであり、
 
(持経者を護ろうとしてやって来る) 「十羅刹だろうか?」とも考えていた。
 聖人は、食べ物供物されても喜ぶことはないし、
 来訪者が話かけても答えることもない。
 ただただ、読誦であり、
 眠っていても声が聞こえていたという。
 ついに最期の時が来たが、
 顔色は鮮やかで、微笑んでいた。
 その時、来訪者が聖人に尋ねた。
  「どうしてそれほど嬉しそうな顔をしているのか?」と。
 聖人は、
  「長年貧乏暮らし。
   今栄華を得て、官位を頂いたのです。
   これを喜ばないことなどありえましょうか。」と。
 日頃の態度と違うので、気が狂ったのかと思って、
 栄華官爵の喜びがどのようなものか尋ねた。
  「喜びとは、
   所謂、煩悩不浄の身体を棄て、
   清浄微妙の身体を得ることになったこと。」
 と答えて入滅。


上記の文章だけでは、良算持経者思想性はよくわからないが、わざわざ水の泡を持ち出しており、信仰上、この無常観が重要視されているということだろう。
中華帝国との対比感で泡沫という比喩を持ち出しているようにも思える。と言うのは、入滅すると官位が頂けて嬉しいと、理解し難いことを言っているからだ。これは、あの世が官位がつく官僚世界である道教を揶揄しているのかも。

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