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■■■ 今昔物語集の由来 [2019.12.25] ■■■
[178] 鳴滝の寺
京都の鳴滝と言えば、藤原道綱母:「蜻蛉日記」の鳴滝籠りの段。
夫 兼家への嫉妬と息子への溺愛の話である。・・・
  さて思ふに、
  かくだに思ひ出づるもむつかしく、
  さきのやうにくやしきこともこそあれ、
  なほしばし身を去りなむと思ひ立ちて、
  
西山に、例のものする寺あり、
  そちものしなむ、かの物忌果てぬさきにとて、四日、出で立つ。
   :
  
鳴滝といふぞ、この前より行水なりける。
  返りごとも思ひいたるかぎりものして、
  「たづねたまへりしも、げにいかでと思う給へしかど、
    
  物おもひの 深さ較べに 来てみれば 夏の繁りも ものならなくに
   まかでんことはいつともなけれど、
   かくの給ふ事なん思う給へわづらひぬべけれど、
    
  身ひとつの かくなる滝を 尋ぬれば さらにかへらぬ 水もすみけり
   と見れば、ためしある心ちしてなん」
  などものしつ。

どういう理由か、寺の名前はどこにも記載されていないし、場所も西山と漠然とした表記。しかし、どうも鳴滝らしいから、このお寺は、白砂山(265m)山麓、井出口川/三宝寺川(御室川上流)西岸五台山和泉谷の般若寺と見なされている。
現在は鳴滝般若寺という地名しか残っていないが、竹原春朝斎:「都名所図会」書林吉野屋 1780年には、"般若寺 三宝寺"が掲載されており、壮大な伽藍があったようだ。場所的には、御室と嵯峨野の中間であるから半日で行ける景勝地ということで、それなりの人気を集めていたのだろう。

「今昔物語集」には、この般若寺が廃寺化して行く話と、鳴滝で「南無阿弥陀仏」と唱えて息絶えた滝丸という仁和寺の童子の話が収載されているので取り上げておこう。
寺の実相がママ描かれていると言ってよいだろう。

華やかで時代の先端を走ったお寺も40年経つと影も形もなくなる。藤原道綱母が寺名を書かなかったのは慧眼と言えよう。
  【本朝仏法部】巻十九本朝 付仏法(俗人出家談 奇異譚)
  [巻十九#23]般若寺覚縁律師弟子僧信師遺言語
 山城鳴滝の般若寺に覚縁律師[n.a.-1002年]が住していた。
 千攀僧都の下で学んだ東大寺の優秀な学僧出身。
 東寺の僧となり、広沢の寛朝僧正@遍照寺の弟子として、真言を修得。
 優れた霊験を現したので、学問と霊験の両面で貴顕の厚い信任を受け、
 若くして律師になった。
 律師は般若寺を受け継ぎ、
 本堂西南に大きな僧坊を建て、
 西北に張り出した回廊を造った。
 すべて節無しの良材で、見事な造営だった。
 立派になり、関白殿もお出ましに。
 身分の高い人達は、漢詩の会を持ったりもした。
 日々、訪問客が絶えないし、
 律師も、祈祷や講義ということで、
 貴い方々に召される日々。
 垂涎の存在に。
 ところが、律師はなんということもなさそうな病にかかってしまった。
 風邪と見て、湯治などをしているうちに、重篤化。
 毎日のように弟子が集まって祈祷。
 皇族からも見舞いの使者も来訪。
 若くて容姿端麗だし、学問霊験も素晴らしく、期待の僧だったので
 病を心配する人だらけ。
 律師は法華経を暗記しており、
 真から貴い声で読経するので、聞けば皆涙だったが
 病床にあっても、夜昼、読経を欠かすことはなかった。
 そして、ついに、弟子、一人一人に遺言を残すに至った。
 しかし、般若寺を誰に継承させるのかは、言わないまま。
 皆、古参の弟子から選ぶのだろうと見ていた。
 そこに、
 しばらくぶりに、公円という弟子がやって来た。
 性格が偏屈だったので、目通りも許されなくなり、
 勘当状態に陥り、
 様々な所を巡って修行していており、
 勝尾に籠もっていた時に、
 律師の病状を聞いて、驚いて、
 急遽、戻って来たのである。
 死の前日のこと。
 律師は、主だった弟子が居並ぶ前で、
 苦しく息をしながら、
 弟子とも思われていない嫌われ者の公円のことを尋ねた。
 「公円は来たか。」
 「4〜5日前から居りますが、
  遠慮して出て参りません。
  後方の小屋に居るのでしょう。」
 「ここへ呼ぶように。」
 皆、どういうことか訝った。
 公円もとまどったが、呼ばれたので、師のおそばに。
 律師は、遺言を残す。
 「汝は、極めつけの偏屈者だ。
  東と言えば西。立てといえば座る。
  我は、長年、うとましく思っていた。
  そのため、転々と廻って修行していると耳にし、
  哀れに思っていた。
  我は、すぐに死ぬ身だ。
  死ぬと、この寺は一日毎に荒れていくだろう。
  お堂は壊れるし、仏像もは盗まれる。
  そして、仕舞いには、無人になってしまう。
  そこで、汝に頼みたい。
  どんなに辛くても他所へ行かず、
  一枚の板の切れ端も大事にして、
  この寺に住んでもらいたい。
  ここに居る弟子達は皆優秀だが、
  ここに留まる者は一人もいまい。
  寒暑を忍び、飢えにも耐え、住み続けることができるのは
  汝しかいないから、申しておるのだ。
  この言に背いてはならぬそ。」
 弟子達は、自分達こそここに住んで、
 様々な仏事を絶やさず行おうと考えているのに、
 よりにもよって、こんな僧に命じるとは、
 どういうことかと思ったのである。
 弟子は師の後も住み続けるもので、
 この貴い寺を去る訳がなかろうと思ったのである。
 しかも、葬儀も四十九日法要も賑やかに執り行われたので
 皆、寺の衰退などありえないと喜びあった。
 ところが、忌が明けると、次々と自分の寺に帰り始め、
 縁の深い弟子20〜30人しか居なくなってしまった。
 そうなると、里人も寺僧に冷たくなり、侮るまでに
 そうなると、去る者、死ぬ者だけで、加入する者もいない。
 熱心な修行者は東大寺などへ移るし、
 徐々に、弟子の数は減っていったのである。
 ものの10年もしないうちに、境内から人影が消えたのである。
 馬や牛が入り込み庭木は食い荒らされ、
 建具も壊れ、荒れ果ててしまい、人目にも哀れそのものの状況に。
 そうなっても、公円だけは住み続けていた。
 その他に住むのは弟子の小法師一人。
 僧坊には、火を焚く気配もなくなり、
 人々は、公円も逃げ出すに違いなかろうと思われていたが、
 貧しさに堪えて住み続けていたのである。
 哀れと思い訪ねる者はあったが
 根が偏屈 なので友もいなかったのである。
 ただただ、師の遺言に背かぬために寺に残ったのだが
 40年経つと建物が倒れてしまった。
 そこで、残っている2〜3間の廊下の片隅にに住み続けることになった。
 臨終に際しては、阿弥陀念仏を唱えて入滅。
 今、その地に残るのは礎石のみ。


次ぎの譚だが、「今昔物語集」編纂者は、下働きの心根に共感を寄せていそう。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#54]仁和寺観峰威儀師従童往生語
 仁和寺の僧 観峰に仕える、滝丸という17〜18才の童子がいた。
 仕事は雑多で、馬餌用草刈や肥え汲み等々の下働き。
 常に、粗末な麻の着物を着用。
 夏は。袖無しで、丈が膝までの着物一枚のみ。
 冬は、着物二枚。
 ある年の八月頃のこと。
 滝丸が主人に
 「用があるので出かけてきます。」と言った。
 これを聞いて、皆、笑ったのである。
 「小僧が一人前にも、暇を願い出たぞ。」と言って。
 滝丸は、仁和寺を出て西へ向かい、
 鳴滝で川の水を浴び身を浄め、
 松の木が生えている野原へ行って芒を刈り集め、
 小さな庵を作った。
 そして、中に入り、西向きに坐し合掌。
 大声で一心に「南無阿弥陀仏」を唱えたのである。
 10〜20遍も唱えると、
 その辺りの馬飼いや牛飼いの童子が集まって来た。
 「滝丸は何をしているのだろう?」と童子達が立ち並び眺めていると、
 しばらく念仏を唱えると、その声が止んでしまった。
 見ると、合掌したままの姿で、首を垂れて死んでいる。
 童子達は驚いて、知らせに行った。
 仁和寺からも、沢山の僧が集まって来て、
 滝丸の最期の姿を見て
 「実に不思議。
  考えて見れば、
  滝丸は絶えず口を微かに動かしていた。
  念仏を唱えていたのだろう。」ということになった。


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