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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.4] ■■■
[188] 綽名
綽名が似合うのはドンファンではないか。
「今昔物語集」では、"在中"在原業平より"平中"平貞文が集中的に取り上げられているような印象を与えるが。

しかし、白眉はなんといっても"青経の君"だろう。

書によっては、青侍従とか青常と呼ばれているようだが、要するに、顔色が青白く、容姿も所作も不格好だったので、皆にからかわれる対象だったというにすぎない。
しかし、この話を読んだ人は間違いなく、超有名な"末摘花"[「源氏物語」第6帖]を思い出す。
言うまでもなく、光源氏が、困窮しているが気立てが良い、紅鼻の常陸宮の姫君につけた綽名である。おそらく、光源氏お気に入りの女性のなかで、唯一、不細工な容姿。

"青経の君"とは、源邦正らしく、学識豊かで楽才にも優れた風流人である重明親王[906-954年 醍醐天皇第四皇子]と藤原忠平の娘寛子[906-945年]の御子である。
  【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚)
  [巻二十八#21]左京大夫□□付異名語
 村上天皇代。
 旧宮の御子 左京大夫は、背が多少高く細身で、大変上品なご様子。
 どころが、所作や居られる姿は間が抜けていた。
  鐙頭で、冠の纓が背に付かないで、揺れている。
  顔は露草の花色のように青白く、瞼は黒く、
  鼻は際立って高いが、少し赤い色をしている。
  唇は薄く色が無く、笑うと歯が丸見えで、さらに赤い歯茎まで見える。
  鼻声でかん高いので、その声は家中に響き渡る。
  背を振り、尻を振って歩くのである。
 殿上人としては、顔色が特別青かったので、
 皆が"青経の君"と綽名をつけて笑い者にしていた。
 特に、若い殿上人のなかで元気で生意気者共は、
 度を越すほど、からかっていたので、
 天皇も聞き捨てならぬと言うことでご機嫌が悪くなった。
 面白くはなかった者もいたがが、綽名を使わないことにし、
 "青経"と呼んだ者には、酒・肴・菓子提供の罪を与えることに。
 そうこうするうち、
 その約束を、堀川の中将 兼通大臣は忘れてしまい、
 つい、「あの青経丸はどこへ行くのか?」と口に出してしまった。
 そこで、
 約束通り、速やかに酒・肴・菓子を供すべしということに。
 知らん顔するつもりだったが、真剣に言いだす者もおり、
 堀川の中将は、苦笑し、明後日頃に贖いをするから
 殿上人も蔵人も皆お集まりのほどと言い帰っていったのである。
 さて、その当日だが、
 殿上人は皆参内し、居並んで待っていた。
 そこへ、堀川の中将登場。
 光るばかりに魅力的な直衣姿で、素晴らしい御香薫きしめていた。
 その直衣の裾からは青い出袿、しかも、青色の指貫。
 4人の随身は狩衣に袴・衵姿だが、
  一人は、青く彩った折敷に、猿梨を盛った青磁の皿を捧げ持たせ
  一人は、青い薄紙で口を包んだ、酒が入った青磁の瓶を持たせ、
  一人は、青い小鳥を5〜8羽付けた青竹の枝を持たせていた。
 これらを、殿上口から次々と持ってきて供えたのである。
 集まっていた殿上人たちは大声を出して笑い大騒ぎ。
 天皇にもこの声が届いたので、
 「何を笑っているのか?」とお尋ねになられるたので、
 女房が
 「兼通が"青経"と呼んで、皆に責められ、
  その贖いを致しているところでございます。
  そこで、笑い騒いでおります。」と申し上げた。
 天皇は、一体、どのように贖っているのかということで、
 日の御座にお付きになって、小蔀から覗いてご覧になった。
 そして、ご自身も大いにお笑いになられたのである。
 それからというもの、
 ご機嫌を損ねられることもなくなったので、
 "青経の君"という名は残ることに。


引き続く藤原忠輔[944-1013年 国光ニ男]綽名譚も見ておこう。多少シリアスなところもある。
  [巻二十八#22]忠輔中納言付異名語
 藤原忠輔の綽名は"仰ぎ中納言"。
 何時も、空を仰ぎ見るようにしていたので名付けられたのである。
 忠輔が右中弁で殿上人だった時のこと。
 
 (任官歴からすると、994年左中弁である。)
 小一条の左大将藤原済時
[941年-995年]が参内され、右中弁に会った。
 
 (藤原済時は991年 正二位大納言。)
 左大将は右中弁が仰向いているのを見て、
 冗談半分に
 「只今、天には何事かございますか?」と尋ねた。
 右中弁はその言葉にカチンと来て
 「只今、天には大将を害する星が現れております。」と答えた。
 腹を立てる訳にもいかず、苦笑する以外にない。
 その後しばらくして、
 左大将逝去。
 
 (死因は大流行していた疱瘡。)
 右中弁はあの冗談が原因と考えた。
 それから長いことあって、中納言になったが、
 「仰ぎ中納言」との綽名は付いたままだった。

仏教では、前世の報いで死ぬのだから、冗談で死ぬことはないが、つまらぬ冗談はおよしなさい、というのがご教訓になる。
ただ、すぐ口から出たところを見ると、藤原忠輔は星占いを学んでいたのだろう。

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