→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.12] ■■■ [196] 曽丹 一般には、私生活から、出自はおろか、生没年まですべて不詳とされている。勅撰集に合計90首と、とんでもない数であるにもかかわらずだ。 「今昔物語集」での書きっぷりから想像するに、曽丹は自号ではなく、揶揄された綽名を、それならそれで結構としたのだろう。そして、曽丹の名前が残ることに全精力を注ぎ込んだ人と見て間違いない。 よく知られる恋歌がある。 由良の門を 渡る舟人 梶(楫)を絶え 行方も知らぬ 恋の道かな [「新古今和歌集」巻十一恋一#1071 「小倉百人一首」#46] 「今昔物語集」に関係する歌はこちら。 円融院の御子ねの日に、召しなくて参りて、さいなまれて又の日、奉りける 与謝の海の 内外(うちと)の浜の 浦寂びて 世を憂(浮)き渡る 天の橋立 [「好忠集」#475] もちろん、"召しなくて参り"て、摘まみだされた御仁であるから、「今昔物語集」には曽丹の歌は一首たりとも収載されていない。 【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚) ●[巻二十八#_3]円融院御子日参曽祢吉忠語 (984年に退位された翌春2月) 円融院は、御子の日に千代の祝賀行事を開催。 場所は船岳。 御所は堀河の院。 二条から西へ大宮。さらに、大宮から北に上った。 見物人で立錐の余地なし。 お供の上達部殿上人の装束は見事極まった。 雲林院南の大門で馬に乗り換えて、紫野に到着。 宴の場は船岳の北。 小松が所々群れ、 そこに遣り水を流し、 石を立て、砂を敷き、 唐錦の平張りに簾をかけて板を敷いた。 高欄まであり、見事なこと、この上なし。 その御座の廻りには同じ錦の幕を引き廻し、 御前近くには上達部の座、 その次ぎが殿上人の座。 殿上人の座の末には、 幕に沿った横の方に和歌読の座が設けられた。 円融院ご着座後、上達部・殿上人は指示通り着座。 召された和歌読達にも、命があり着座。 皆、衣冠で参上。 【KEY】㊱:藤原公任撰"三十六歌仙" ○大中臣能宣[頼基の子 正四位下祭主・神祇大副 921-991年]…後撰集撰者㊱ ○源(⇒平)兼盛[平篤行三男 従五位上駿河守 n.a.-991年]…㊱ ○清原元輔[春光の子 従五位上肥後守 908-990年]…後撰集撰者㊱ ○源重之[貞元親王孫/兼信の子 従五位下筑前権守 n.a.-1000年]…㊱ ○紀時文[貫之の子 従五位上922-996年]…後撰集撰者 和歌読達並んで着座しているところに、 暫くしてから、 烏帽子をつけ、薄墨色の狩衣袴平服で賤しい姿の翁が現れて この座に着いた。 人々は何者かと眺め、じっくり見るとわかった。 ○曽弥好忠[父祖不詳 卑官(六位)] …「百首歌」「毎月集」による歌風革新者 藤原範兼撰"中古三十六歌" 和歌は洗練の頂点に達し、行き先が見えなくなっていた。 曽丹は新しい道を切り拓こうとした訳である。それも単独で。 殿上人達が、曽丹が来ていると小声で話すので もったいぶって、「左様でございます。」と言う。 お召しもないのに参上しており、すぐに退出せよと命じても 一向に動こうとしないので、 結局、狩衣の頸を攫まれて引きずり出され、踏みつけられる。 逃げて行くのを大声で罵って、皆、大笑い。 曽丹は、小高い丘に走り行き、大声で 「お前らは何を笑うのだ。 自分は恥ずかしいことなどしていないのだ。 良く聞くがよい。 太上天皇が子の日に外出なさり、 和歌読共を召すと聞いたから 好忠が参上して着座したのである。・・・」と。 「今昔物語集」編纂者のご教訓は、 "素性の賤しい者は、やはり愚かな所があるもの"ということで、五位以上の官位が無い者を排除する、貴族社会におもねる文章になっているだけ。 「酉陽雑俎」とは違い、この辺りが「今昔物語集」の限界であろう。間違ってはこまるが、排除の論理のことではない。 前者の著者は、詩や文章に秀で当代随一のレベルだ。にもかかわらず、平易な文章に徹している。流石だ。 一方、後者の編纂者も同じように平易な文章に徹してはいるものの、和歌評価能力には自信がなかったようだ。 従って、この譚にエスプリを持ち込みようがない。招かれた五人のなかにいる、お付き合い上手なだけで凡庸な歌人を示唆する記述が無ければ、せっかくの曽丹の行為が台無しになると言うのに。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |