→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.1.22] ■■■ [206] 国上山の泰澄大徳 中腹の国上寺は越/古志の大徳による開山[709年]と伝わる。北海鎮護の地ということらしい。 《泰澄大徳 系譜》 682年:誕生…越前足羽麻生の三神安角の次男 693年:入唐僧 道昭[629-700年]が神童発見 693年:越前越知山で修行 702年:鎮護国家法師 709年:国上寺開山 716年:加賀白山開山…修験道 (弟子) ・能登出身の臥行者…飛鉢法 ・出羽出身の浄定行者…元船頭 722年:元正天皇の病治癒の効…護持僧として禅師号 767年:入滅 (「泰澄和尚伝記」957年に詳しく記載されているそうだ。) 仏教史的には、越後の国上山における宝塔建立を成功させたとして名が残る聖人ということになろうか。[@「大日本国法華経験記」] 当然ながら、宗教史では政治的な意味あいはわからない。 俯瞰的に上記の活動を眺めると、米の海上輸送に係っていたと考えるのが自然だ。弟子と共に、米鉢を飛ばしたり、それに係る船を操縦する呪術を駆使するのだから。 そこに、古代から続く加賀白山の霊山信仰が被っている訳だ。地名的にも、越後信濃川近辺には米山があり、船岡山がある訳だし。 なんとはなしに、道教的な風合いを感じさせるが、鎮護仏教の僧である。 従って、加賀白山を中心にローカルな活動に徹していた訳ではない。実際、正法寺@大津開基と伝わるし。 「今昔物語集」に、神融聖人として登場するのは、この泰澄大徳である。仏僧のイメージとはかなり隔たりがあるということで選ばれた名前だろうか。現地では、神融禅師と呼ばれていたりするから、神融御上人様と長らく呼ばれ続けていたのであろう。 【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#_1]越後国神融聖人縛雷起塔語 古志の國上山の有徳の人が塔を建立。 建造完成後、供養を始めたところ にわかに雷電霹靂。 塔は破壊されてしまった。 自然現象であるから止むを得ないと言うことで、 再度、建造。 所が、供養の日に、再び雷で破壊されてしまった。 三度目のこと。 神融聖人が来訪し、法華経の力で雷を防ごうと申し出た。 そして、塔の下で法華経読誦。 ところが、やはり、曇り始め、雷電が轟いたのである。 願主達は、又破壊されると見て、逃げ廻った。 すると、空から。年の頃15〜16の少年が堕ちて来た。 蓬髪で極めて恐ろしげな姿だが、五体は縛められていて、 泣く泣く聖人に許しを請う始末。 その童は雷神に他ならないが、國上山地主神の友だったのである。 住処を失うことを恐れた地主神に頼まれて塔を破壊したが 聖人の法力にはなすすべもなく、これからは、仏法に従うと誓う。 そして、山寺に水を引くとも。 その後数百年、塔の周りでは雷も鳴らない。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |